先日『ローマ人の物語』を読み終え、古代ローマの次の時代に取り掛かろうとしている。
が、その前に、西ローマ帝国を滅ぼして、一瞬のうちに歴史の表舞台から消えてしまった東ゴートを理解しておこうと思い、『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』を読んだ。
僕は歴史学者になりたいわけではないので、大まかな流れが分かれば良い。このぐらい柔らかくて、この程度のボリューム感で十分だろうと。
本書は『ローマ人の物語』の43巻とほぼ同じ時代を描いている。
ただ、東ゴートに焦点を当てているので、ローマ史に登場する前のゴート人の話や、『ローマ人の物語』以降の東ゴートの行方についても描かれているが、ページ数でいえば非常に僅かだ。
『ローマ人の物語』では、あくまで「ローマ」に主眼があっての東ゴートであったのだが、本書は当然ながらあくまで東ゴートの動静をなぞっている。そういう意味では、違う視点から同じ時代、同じ地域の歴史をなぞることができる。
が、正直なところ、直前まで読んでいた『ローマ人の物語』の出来と、ついつい比較してしまう。
やっぱり塩野七生さんの腕前はスゴイ。。。
本書は、誰のために書かれているのか、その文章運びからは伺うことができないのだ。
というのも、説明も無しにいきなり登場する人物とか、さも周知のことであるかのように描かれる挿話とか、その都度「あれ、この前に何か書いてあったっけ・・・?」と、その度に前を探さなければならないようなことが多かったのだ。
一定の知識を持っている人間が読むにしてはライトすぎるし、かといって、知識の無い人間が読むには説明の段取りが悪すぎる。『ローマ人の物語』を読んだ後でなかったら、なにがなんだかサッパリ分からなかったと思う。
が、そもそも「東ゴート」などというマイナーな存在に焦点を当てた本をわざわざ読もうという人間が、まるっきり知識を持っていないということは無い、というスタンスで書かれたのかもしれない。それにしては、通り一遍な描き方だが。
とはいえ、そのマイナーな「東ゴート」に焦点を当てた作品が文庫本で提供されているというのは、非常にありがたい話だ。
なお、同じ著者で、このあたりの時代の民族に焦点を当てたものとして『ヴァンダル興亡史』という作品があるのだが、残念ながら絶版だった。。。読みたいと思ったのに。。。
2013年5月4日土曜日
2013年4月28日日曜日
塩野七生 『ローマ人の物語43 ローマ世界の終焉(下)』
『ローマ人の物語』文庫版43冊目。
ローマ人の物語は、これで完結である。
かねてから著者は、オリエントな東ローマ帝国は非ローマだというスタンスを取っていた。
それがここに来て、「東ローマ帝国」という言葉を使わず、「ビザンツ」「ビザンチン」という言葉を使うようになったところにも現れているように感じた。
42巻ですでに西ローマ帝国は滅んだ。
43巻に描かれているのは、西ローマ帝国が滅んだあとの跡地での出来事である。
なぜ、著者はそこまで書き進めたのか。
思うに、それは本書が「ローマ帝国の物語」ではなく、「ローマ人の物語」だからなのだろう。
195ページに、プロコピウスの「ゴート戦記」を引用して、以下のように記述している。
-------------------------------------------------------
これが、かつては世界中の人々から憧憬の念で見られていた、輝けるローマ市民の現在の姿であった。
-------------------------------------------------------
つまり、ここまで描ききることによって、本当の「ローマ人」の終わりまでを描こうとしたのだろうと。
この43巻は、次に訪れる中世暗黒時代の到来を示すような記述にも溢れている。
その一例が、155ページ。
ローマ防衛のためにベリサリウスが城壁の補強工事を急いでいる際の様子について。
---------------------------------------------------------
カトリックの聖職者たちは、その部分の城壁は完璧だから補強の必要はない、と言う。なぜかと問うたベリサリウスに、聖職者たちは答えた。聖ペテロが守護しているという伝承があるからだ、と。
---------------------------------------------------------
この論理破綻の在り方は、アメリカの保守派による進化論否定にも引き継がれているのではなかろうか。
ローマ人の物語は、これで完結である。
かねてから著者は、オリエントな東ローマ帝国は非ローマだというスタンスを取っていた。
それがここに来て、「東ローマ帝国」という言葉を使わず、「ビザンツ」「ビザンチン」という言葉を使うようになったところにも現れているように感じた。
42巻ですでに西ローマ帝国は滅んだ。
43巻に描かれているのは、西ローマ帝国が滅んだあとの跡地での出来事である。
なぜ、著者はそこまで書き進めたのか。
思うに、それは本書が「ローマ帝国の物語」ではなく、「ローマ人の物語」だからなのだろう。
195ページに、プロコピウスの「ゴート戦記」を引用して、以下のように記述している。
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これが、かつては世界中の人々から憧憬の念で見られていた、輝けるローマ市民の現在の姿であった。
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つまり、ここまで描ききることによって、本当の「ローマ人」の終わりまでを描こうとしたのだろうと。
この43巻は、次に訪れる中世暗黒時代の到来を示すような記述にも溢れている。
その一例が、155ページ。
ローマ防衛のためにベリサリウスが城壁の補強工事を急いでいる際の様子について。
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カトリックの聖職者たちは、その部分の城壁は完璧だから補強の必要はない、と言う。なぜかと問うたベリサリウスに、聖職者たちは答えた。聖ペテロが守護しているという伝承があるからだ、と。
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この論理破綻の在り方は、アメリカの保守派による進化論否定にも引き継がれているのではなかろうか。
2013年4月25日木曜日
塩野七生 『ローマ人の物語42 ローマ世界の終焉(中)』
『ローマ人の物語』文庫版42冊目。
ついに西ローマ帝国が滅んだ。
本巻では、話のほとんどが西ローマ帝国で占められている。
それは、東ローマ帝国については語るべきほどのことが無いからなのか、それとも、ローマのある西ローマ帝国こそがローマであるということなのか、真意は分からない。
いよいよ西ローマ帝国が滅びるにあたって、まさに国家としての末期症状を見る思いだ。
もはやこれは、国家の体を成していないのではないかとさえ思える。
まるで昨年までの日本の民主党政権のようだ。
そして、あんなに勢いのあったフン族も霧散してしまった。
なんだか、いろんなことが呆気無い。
そんななかでも、東ローマ帝国は難事を無難に切り抜けているようで。
また、ヴァンダル族は勢いを増して勢力を拡大していく。
やはり、指導者がちゃんと機能すると、機能したなりの結果が得られるのだなぁと。
そして、指導者が機能することを私心のために妨げる人々は、どこにでもいるのだなぁと。
そのような私心を優先するクソ野郎の罠をいかにかいくぐるかも、指導者には必要な資質なのだなぁと。
勢いがあったころのローマよりも、滅び行くローマの方が、僕にとっては学びが多い。
読んでてツマランけど。
ついに西ローマ帝国が滅んだ。
本巻では、話のほとんどが西ローマ帝国で占められている。
それは、東ローマ帝国については語るべきほどのことが無いからなのか、それとも、ローマのある西ローマ帝国こそがローマであるということなのか、真意は分からない。
いよいよ西ローマ帝国が滅びるにあたって、まさに国家としての末期症状を見る思いだ。
もはやこれは、国家の体を成していないのではないかとさえ思える。
まるで昨年までの日本の民主党政権のようだ。
そして、あんなに勢いのあったフン族も霧散してしまった。
なんだか、いろんなことが呆気無い。
そんななかでも、東ローマ帝国は難事を無難に切り抜けているようで。
また、ヴァンダル族は勢いを増して勢力を拡大していく。
やはり、指導者がちゃんと機能すると、機能したなりの結果が得られるのだなぁと。
そして、指導者が機能することを私心のために妨げる人々は、どこにでもいるのだなぁと。
そのような私心を優先するクソ野郎の罠をいかにかいくぐるかも、指導者には必要な資質なのだなぁと。
勢いがあったころのローマよりも、滅び行くローマの方が、僕にとっては学びが多い。
読んでてツマランけど。
2013年4月24日水曜日
塩野七生 『ローマ人の物語41 ローマ世界の終焉(上)』
『ローマ人の物語』文庫版41冊目。
単行本では、ここからが最終巻であるが、文庫版はこのあと2冊残っている。
41巻冒頭の「カバーの金貨について」は、いきなり以下の文章から始まる。
----------------------------------------------------------------
人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起きる悲劇、ということである。
----------------------------------------------------------------
実際、41巻では、人材という意味では充分な人物が、縦横無尽の活躍の末、報われない死に方をしていく様が描かれている。
その「人物」とは、「最後のローマ人」と呼ばれる将軍スティリコである。
時は、テオドシウス帝が亡くなるタイミングから始まる。
テオドシウス帝は自身が死ぬに先立ち、2人の息子に分担して国を治めるように計らい、その後見役を有能で忠実な右腕であった将軍スティリコに託した。
が、結果として、2人の息子は「分担」ではなく、東と西に国を分かち、別々に治めるようになった。
これに伴い、東側の宮廷の差金で、スティリコは全ローマ帝国の軍総司令官の立場から、西側、すなわち西ローマ帝国だけの軍司令官にされてしまう。
その後、本書はスティリコを追い続ける。
東ローマ帝国に書くべきほどのことが無かったから、ということもあろうが、同時にそれは、著者が冒頭の「カバーの金貨について」で述べた、人材が活用されないことの悲劇を描きたかったからではないかと感じた。
いや、「活用されない」などという生易しいものではない。
人材であるがゆえに、使い潰され、つまらぬ最後を迎え、それを引き金に西ローマ帝国は下り坂を転がるスピードが加速度的に増していくのだ。
読んでいて、イライラする。
多くのサラリーマンは、どうしても感情移入せずにはいられないだろう。
余談だが、本書に掲載されているスティリコの肖像を見るにつけ、面長で長身であることが見て取れるのだが、そのようなビジュアルに加えさらに、使い物にならないような素人兵士を上手く使って戦績を上げるところなどから、あるコミックの登場人物を連想した。
それは『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』に登場する常木楷という登場人物だ。
常木は通称「羊飼い」と呼ばれており、凡才ぞろいの兵士(=羊)を上手く操って戦績を挙げていくという現場指揮官として描かれている。
スティリコを見ていると、どうしてもこの常木のイメージとダブってしまって、余計に感情移入をしてしまうことだ。
単行本では、ここからが最終巻であるが、文庫版はこのあと2冊残っている。
41巻冒頭の「カバーの金貨について」は、いきなり以下の文章から始まる。
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人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起きる悲劇、ということである。
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実際、41巻では、人材という意味では充分な人物が、縦横無尽の活躍の末、報われない死に方をしていく様が描かれている。
その「人物」とは、「最後のローマ人」と呼ばれる将軍スティリコである。
時は、テオドシウス帝が亡くなるタイミングから始まる。
テオドシウス帝は自身が死ぬに先立ち、2人の息子に分担して国を治めるように計らい、その後見役を有能で忠実な右腕であった将軍スティリコに託した。
が、結果として、2人の息子は「分担」ではなく、東と西に国を分かち、別々に治めるようになった。
これに伴い、東側の宮廷の差金で、スティリコは全ローマ帝国の軍総司令官の立場から、西側、すなわち西ローマ帝国だけの軍司令官にされてしまう。
その後、本書はスティリコを追い続ける。
東ローマ帝国に書くべきほどのことが無かったから、ということもあろうが、同時にそれは、著者が冒頭の「カバーの金貨について」で述べた、人材が活用されないことの悲劇を描きたかったからではないかと感じた。
いや、「活用されない」などという生易しいものではない。
人材であるがゆえに、使い潰され、つまらぬ最後を迎え、それを引き金に西ローマ帝国は下り坂を転がるスピードが加速度的に増していくのだ。
読んでいて、イライラする。
多くのサラリーマンは、どうしても感情移入せずにはいられないだろう。
余談だが、本書に掲載されているスティリコの肖像を見るにつけ、面長で長身であることが見て取れるのだが、そのようなビジュアルに加えさらに、使い物にならないような素人兵士を上手く使って戦績を上げるところなどから、あるコミックの登場人物を連想した。
それは『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』に登場する常木楷という登場人物だ。
常木は通称「羊飼い」と呼ばれており、凡才ぞろいの兵士(=羊)を上手く操って戦績を挙げていくという現場指揮官として描かれている。
スティリコを見ていると、どうしてもこの常木のイメージとダブってしまって、余計に感情移入をしてしまうことだ。
2013年4月18日木曜日
塩野七生 『ローマ人の物語40 キリストの勝利 (下)』
『ローマ人の物語』文庫版40冊目。
皇帝テオドシウスの治世が主たる範囲だが、テオドシウスそのものよりもむしろ、キリスト教の動向がメインで描かれている。
なにしろ、テオドシウスの治世には、ローマ帝国においてキリスト教の国教化が著しく進んだ時期である。というよりも、テオドシウスがミラノの司教アンブロシウスにコントロールされた結果、古来からのローマの神々に対する信仰を「邪教」認定したのだ。
テオドシウスの前の皇帝は皆、死の直前になって初めてキリスト教の洗礼を受けていたのだが、テオドシウスだけは、48歳で亡くなる直前ではなく、30代のうちに洗礼を受けていたのだ。
このため、神の教えを説く司教であるアンブロシウスに逆らうことのできない信徒の立場となったテオドシウスは、中世の「カノッサの屈辱」のような公式悔悛を強いられている。
そのような経緯の末、テオドシウスの治世には、ローマ帝国の都市の至るところに飾られていた彫像が、偶像崇拝の対象であるとして破壊された。
つくづく惜しいことである。
次巻以降は、単行本ではついに最終巻となる部分に差し掛かる。
皇帝テオドシウスの治世が主たる範囲だが、テオドシウスそのものよりもむしろ、キリスト教の動向がメインで描かれている。
なにしろ、テオドシウスの治世には、ローマ帝国においてキリスト教の国教化が著しく進んだ時期である。というよりも、テオドシウスがミラノの司教アンブロシウスにコントロールされた結果、古来からのローマの神々に対する信仰を「邪教」認定したのだ。
テオドシウスの前の皇帝は皆、死の直前になって初めてキリスト教の洗礼を受けていたのだが、テオドシウスだけは、48歳で亡くなる直前ではなく、30代のうちに洗礼を受けていたのだ。
このため、神の教えを説く司教であるアンブロシウスに逆らうことのできない信徒の立場となったテオドシウスは、中世の「カノッサの屈辱」のような公式悔悛を強いられている。
そのような経緯の末、テオドシウスの治世には、ローマ帝国の都市の至るところに飾られていた彫像が、偶像崇拝の対象であるとして破壊された。
つくづく惜しいことである。
次巻以降は、単行本ではついに最終巻となる部分に差し掛かる。
2013年4月16日火曜日
塩野七生 『ローマ人の物語39 キリストの勝利 (中)』
『ローマ人の物語』文庫版39冊目。
この巻では、コンスタンティウスに反旗を翻し、結果、皇帝の座についたユリアヌスと、その死後皇帝の座を襲ったヨヴィアヌスの治世を描いている。
ユリアヌスは、コンスタンティヌスとコンスタンティウスによって推進されたローマ帝国のキリスト教化にストップをかけた皇帝であり、すでに38巻において副皇帝としての目覚しい活躍が描かれている。
が、23歳で世に出るまで幽閉状態で過ごしたユリアヌスは、やはり世事に長けていたわけではなかったかのように、39巻では描かれている。
若いうちから多くの人の中で揉まれて成長した人ではないユリアヌスが、人の心を見透かして上手く操るなどということは望むべくもないことなのであろう。
ユリアヌスによるたった19ヶ月の治世では、ローマ帝国のキリスト教化も蛮族化も、時計の針を戻すには至らなかった。
ユリアヌスの死後に帝位を襲ったヨヴィアヌスにより、ユリアヌスが発布した反キリスト教政策はすべて破棄されたからだ。
そのヨヴィアヌスも、たった7ヶ月で死亡する。
ここで、ユリアヌスとヨヴィアヌスのそれぞれの治世に対して割かれたページ数が大幅に差があることに注目したい。
19ヶ月の在位のユリアヌスに対して約120ページ。
7ヶ月の在位のヨヴィアヌスに対して約6ページ。
この差はなんであろうか。
著者の贔屓であろうか。
トピックスの量の差であろうか。
1つ言えることは、著者は、後世から「背教者」と不名誉な二つ名をつけられてしまったユリアヌスに対して、一定以上の同情と思い入れを持っていることは間違いないと思う。
それは、ページ数という定量的な尺度だけでなく、彼の失敗や死に対する、行間ににじみ出る無念の思いからも推し知れるところである。
この巻では、コンスタンティウスに反旗を翻し、結果、皇帝の座についたユリアヌスと、その死後皇帝の座を襲ったヨヴィアヌスの治世を描いている。
ユリアヌスは、コンスタンティヌスとコンスタンティウスによって推進されたローマ帝国のキリスト教化にストップをかけた皇帝であり、すでに38巻において副皇帝としての目覚しい活躍が描かれている。
が、23歳で世に出るまで幽閉状態で過ごしたユリアヌスは、やはり世事に長けていたわけではなかったかのように、39巻では描かれている。
若いうちから多くの人の中で揉まれて成長した人ではないユリアヌスが、人の心を見透かして上手く操るなどということは望むべくもないことなのであろう。
ユリアヌスによるたった19ヶ月の治世では、ローマ帝国のキリスト教化も蛮族化も、時計の針を戻すには至らなかった。
ユリアヌスの死後に帝位を襲ったヨヴィアヌスにより、ユリアヌスが発布した反キリスト教政策はすべて破棄されたからだ。
そのヨヴィアヌスも、たった7ヶ月で死亡する。
ここで、ユリアヌスとヨヴィアヌスのそれぞれの治世に対して割かれたページ数が大幅に差があることに注目したい。
19ヶ月の在位のユリアヌスに対して約120ページ。
7ヶ月の在位のヨヴィアヌスに対して約6ページ。
この差はなんであろうか。
著者の贔屓であろうか。
トピックスの量の差であろうか。
1つ言えることは、著者は、後世から「背教者」と不名誉な二つ名をつけられてしまったユリアヌスに対して、一定以上の同情と思い入れを持っていることは間違いないと思う。
それは、ページ数という定量的な尺度だけでなく、彼の失敗や死に対する、行間ににじみ出る無念の思いからも推し知れるところである。
2013年4月14日日曜日
塩野七生 『ローマ人の物語38 キリストの勝利 (上)』
『ローマ人の物語』文庫版38冊目。
内容は、大帝コンスタンティヌスが没した後の皇帝コンスタンティウスの治世について語られている。
ローマでは完全に時代が停滞して、終焉への序章がすっかり根付いた感じの時代である。
この「キリストの勝利」の冒頭では、そんな世相を反映しての市民の暮らしについて、以下のとおり描かれている。
-------------------------------------------------------
独身で、子もない。とはいえ、彼だけが特別ではなかった。
帝国の将来に希望がもてなくなった時代、一生を独身で通すものが珍しくなくなっていたのである。
-------------------------------------------------------
単行本が出版されたのは2005年なので、今ほど独身男性の増加が騒がれていない頃である。
(ちなみに、「草食男子」という言葉の産みの親である『平成男子図鑑』が単行本化されたのが2007年のことだ。)
これを現代日本を言外に想定しながら描いたのだとすれば、塩野七生恐るべしである。
なお、著者はコンスタンティウスのことをこのように評している。
-------------------------------------------------------
この三十代に入ったばかりのローマ帝国最高の権力者は、心配事が一つでも残っていると動きが鈍ってしまう性質だった。本質的に小心者だったのだろう。
-------------------------------------------------------
なんだか、自分のことを言われているようで心が痛むところである。
だからといってコンスタンティウスに感情移入するようなことはないのだが。
内容は、大帝コンスタンティヌスが没した後の皇帝コンスタンティウスの治世について語られている。
ローマでは完全に時代が停滞して、終焉への序章がすっかり根付いた感じの時代である。
この「キリストの勝利」の冒頭では、そんな世相を反映しての市民の暮らしについて、以下のとおり描かれている。
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独身で、子もない。とはいえ、彼だけが特別ではなかった。
帝国の将来に希望がもてなくなった時代、一生を独身で通すものが珍しくなくなっていたのである。
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単行本が出版されたのは2005年なので、今ほど独身男性の増加が騒がれていない頃である。
(ちなみに、「草食男子」という言葉の産みの親である『平成男子図鑑』が単行本化されたのが2007年のことだ。)
これを現代日本を言外に想定しながら描いたのだとすれば、塩野七生恐るべしである。
なお、著者はコンスタンティウスのことをこのように評している。
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この三十代に入ったばかりのローマ帝国最高の権力者は、心配事が一つでも残っていると動きが鈍ってしまう性質だった。本質的に小心者だったのだろう。
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なんだか、自分のことを言われているようで心が痛むところである。
だからといってコンスタンティウスに感情移入するようなことはないのだが。
2013年3月29日金曜日
塩野七生 『ローマ人の物語 37 最後の努力(下)』
塩野七生さんの大作『ローマ人の物語』を文庫版で読み始めて、ようやく37冊目。
すでにローマ帝国は「古代」ではなく「中世」の草創期の様相を呈してくる。
「最後の努力」と題された36冊目、37冊目は、コンスタンティヌス帝の治世について語られている。
このうち、37冊目(文庫版の「(下)」)は、コンスタンティヌスの権力奪取の経過の振り返りと、コンスタンティヌスによる対キリスト教政策について解説されている。
僕自身は、一神教という名の部分最適に対する違和感がどうしても拭えないでおり、なぜ世界の多くの地域で一神教が崇められているのか理解に苦しんでいたのだが、本書を読んで、その答えに対するヒントを得たような気がする。
例えば、93ページに以下のようなことが書かれている。
------------------------------------------------------------------
一神教による弊害はこの一千年後になってはじめて明らかになることであって、多神教が支配的であった古代の人々の考えの及ぶところではなかったのである。
------------------------------------------------------------------
一千年後というと、十字軍のことを指しているのだろうか。
また、107ページには、キリスト教の教義の解釈でアリウス派とアタナシウス派が対立していたことについて述べる中で、以下のようなことが書かれている。
------------------------------------------------------------------
人間は、真実への道を説かれただけでは心底から満足せず、それによる救済まで求める生き物だからである。
------------------------------------------------------------------
やはり、考えることよりも信じることのほうが楽なんだろうな、と思う。
僕には無理だけど。
なお、本書は、あくまで作家である塩野七生さんの史観に基づく著作なので、これを鵜呑みにすることは司馬遼太郎の『坂の上の雲』で日本史を学ぶのと同じぐらい危ういことだと思って警戒しつつ読み続けているのだが、やはりどうしてもこの史観に引き寄せられる。
足腰のしっかりした文体、ストーリーテラーとしてのテンポの良さ、そして、主旨の明快な語り口。
どれをとっても引き込まれずにはいられない。
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