2013年5月6日月曜日

高野秀行 『未来国家ブータン』

みなさんは、「未来○○」というと、何を思い出すだろう?

グーグル先生の候補は「未来工業」「未来日記」が上位に来るようだが、僕は「未来警察ウラシマン」を思い出す。
「未来警察ウラシマン」は、僕が子供の頃に放映されていた、タツノコプロの王道をいくアニメ作品だ。最近、TOKYOMXテレビで再放送されている。

で、今回の話は、「未来警察」には全く関係なく、「未来国家」の話だ。

未来国家といっても、テクノロジーの進化が変な方向に向かってしまって、諸外国のオタク達から「あいつら、未来に生きている」と言われている日本のことではない。
世界一幸せな国として昨今有名なブータンのことである。

以前紹介した高野秀行さんという作家が、ブータンを「未来国家」だとした、『未来国家ブータン』という作品を、今回はご紹介したい。

本書でも、ちょっと変わった紀行という形式は踏襲されている。
今回のミッションは、ブータンにおけるバイオビジネスに関する下見と、雪男の調査だ。
これだけ言うとあまりに支離滅裂な感じだが、ビジネスに関する下見は他者からの依頼であり、このお話の発端である。その依頼に乗っかって、雪男の調査をおこなったというわけである。
著者自身は雪男が存在するなどということには懐疑的なスタンスをとっているのだが、それでも雪男ネタに釣られて辺境に旅立ってしまうあたり、早稲田大学探検部の血なのだろうか。
(著者の早稲田大学探検部の後輩である角幡唯介さんも、自身はその存在に懐疑的であるにもかかわらず雪男ネタに釣られてヒマラヤに行き、『雪男は向こうからやってきた』を著した。)

さて、著者である高野秀行さんといえば、辺境に行ってはアヘンを吸ったり大麻を吸ったり大酒を飲んだりするイメージが強い。
が、実は、年を追うごとに、そういった面が作品に占める割合が少しずつ小さくなってきている。本書でも、そこに割いた字数はかなり僅かだ。
それでいて、辺境に強いその観察眼と洞察力は磨きがかかっている。
いや、観察眼と洞察力に磨きがかかっているからこそ、酒やドラッグの話よりも、もっと書くべきことが多くなってきているのかもしれない。

今回、その観察眼と洞察力で描き出したのは、発展が周回遅れになった結果、エコのトップランナーになったブータンの姿だ。
ブータンといえば「国民総幸福量(GNH)」で有名だが、本書で特に詳しく描かれているのはそちらではなく、この国の環境保全の在り方のほうだ。その環境保全の在り方が、先進諸国が目指しても達成できない姿を体現しているため、著者はブータンを「未来国家」だとしているのだ。

もちろん、幸福に関する観察と洞察も忘れていない。
この国では、幸せになることは権利ではなく義務なのだと喝破する。
もちろん、それを語る文章はどこまでも自嘲的な高野節だ。


本書のあとに著した『移民の宴』で、著者は「初めて親戚に言える作品を書けた」と言っていたようだが(そういうことが渋谷のジュンク堂のポップに書いてあった)、本書も十分親戚に出せる内容なのではないだろうか。少なくとも、大麻もアヘンもやってないし。
それとも、そのポップの文言も単なる高野節ということだろうか。


2013年5月4日土曜日

国分拓 『ヤノマミ』

僕はあまり、アマゾンの先住民の話にはそんなに惹かれない。どう考えれば良いのか分からず、混乱してしまうのだ。

が、NHKスペシャルで採り上げられた「ヤノマミ」という先住民の話がとにかくスゴイ、という話を聞いて、ちょっと読んでおこうかと、軽い気持ちで手に取った。それが、そのNHKスペシャルの書籍化である『ヤノマミ』である。

軽い気持ちで手に取ったのだが、読み始めてみたら、なんと重いことか。

そもそも、NHKスペシャル取材班は150日間もこのヤノマミの集落に住み込み、先住民の生活に密着取材を行っている。
NHKスペシャルのプロデューサに以前聞いたことがあるのだが、NHKスペシャルのスタッフは、その都度都度、NHKの各所からスタッフをピックアップして、タスクフォースのようにチームを組むのだそうだ。
本書の著者であり、当該番組のディレクターは、どういう経緯でこの番組に携わることになったのだろうか。プロデューサ命令であったのだろうか、それとも志願であったのだろうか。ものすごく気になる。僕だったら、とてもじゃないが、150日間もヤノマミの集落に起居するなど、無理だ。

本書はまず、ヤノマミの日常を紹介するところから始まる。
日々のルーチン、ライフスタイル、ヤノマミ以外の人々に接する態度などなど。
完全に異文化である。

そこから次第に、ヤノマミのイベントごとなどの非日常の風景や、ヤノマミの人間関係など深い部分に話が進む。

後半に入ると、出産について描かれている。
そこには、我々が考えるような出産の話とは、全く異なる世界が繰り広げられる。
言ってしまえば子供の間引きなのだが、その在り方の前には、我々の倫理観などとは全く異なる世界観に支えられた、ヤノマミのエコシステム(という表現が正しいのか分からないが、他の言葉が思いつかない)の存在を突きつけられる。
古い日本社会でも、「7歳までは神のうち」という言葉に表されているように子供の間引きは存在していたわけだが、ヤノマミのそれは、日本とは大きく異なる。

さらに話は、先住民と文明社会の接触について展開する。
文明化される若い世代、それに伴って失われる固有の習俗。先住民の話を取り上げるドキュメンタリーでは定番のテーマだが、ヤノマミと150日間起居を共にした著者の筆を通してそれが語られるとき、「先住民固有の文化を守れ!」というような、単純なイデオロギーでは語ることができない葛藤を、読者である我々も共有することになる。

あとがきでは、映画監督の吉田喜重氏の言葉として
「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」
という解釈を間接的に表現している。
また、同じく、舞踏家の田中泯氏の言葉として
「分からないということは素晴らしいことなのだ」
ともしている。
そう、ヤノマミに象徴されるような、文明と先住民の問題に対して「良いこと」「悪いこと」と断じてしまうのは、単なるプロパガンダであり、ドキュメンタリーではないのだろう。
そして、読者としての僕の中にも、重たい何かがズシリと残り、持って行き場が無い。


余談だが、村上春樹さんの『1Q84』の中に、文明側が道路を作ったにもかかわらず、その道路を避けるように歩く先住民の話が登場するが、あれはどこの先住民だったか。
ヤノマミもまさに、道路を避けて歩く。
『1Q84』では、道路を避けて歩く理由が述べられていなかったが、本書では単純に、道路は直射日光がキツくて熱いからだと述べられていた。
意外と、物事の答えなんて単純なものなのかもしれない。


追記:
NHKオンデマンドで、テレビ版を視聴した。
映像が伴うと、書籍とはまた異なったインパクトを受けた。
が、70分ちょっとという短い時間の中で伝えられることは、そう多くない。
やはり書籍を読むべきだと強く思う。
書籍を読んで初めて、取材者の見たこと、感じたことをよりダイレクトに理解することができると思う。

松谷健二 『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』

先日『ローマ人の物語』を読み終え、古代ローマの次の時代に取り掛かろうとしている。
が、その前に、西ローマ帝国を滅ぼして、一瞬のうちに歴史の表舞台から消えてしまった東ゴートを理解しておこうと思い、『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』を読んだ。

僕は歴史学者になりたいわけではないので、大まかな流れが分かれば良い。このぐらい柔らかくて、この程度のボリューム感で十分だろうと。

本書は『ローマ人の物語』の43巻とほぼ同じ時代を描いている。
ただ、東ゴートに焦点を当てているので、ローマ史に登場する前のゴート人の話や、『ローマ人の物語』以降の東ゴートの行方についても描かれているが、ページ数でいえば非常に僅かだ。

『ローマ人の物語』では、あくまで「ローマ」に主眼があっての東ゴートであったのだが、本書は当然ながらあくまで東ゴートの動静をなぞっている。そういう意味では、違う視点から同じ時代、同じ地域の歴史をなぞることができる。

が、正直なところ、直前まで読んでいた『ローマ人の物語』の出来と、ついつい比較してしまう。
やっぱり塩野七生さんの腕前はスゴイ。。。

本書は、誰のために書かれているのか、その文章運びからは伺うことができないのだ。
というのも、説明も無しにいきなり登場する人物とか、さも周知のことであるかのように描かれる挿話とか、その都度「あれ、この前に何か書いてあったっけ・・・?」と、その度に前を探さなければならないようなことが多かったのだ。
一定の知識を持っている人間が読むにしてはライトすぎるし、かといって、知識の無い人間が読むには説明の段取りが悪すぎる。『ローマ人の物語』を読んだ後でなかったら、なにがなんだかサッパリ分からなかったと思う。
が、そもそも「東ゴート」などというマイナーな存在に焦点を当てた本をわざわざ読もうという人間が、まるっきり知識を持っていないということは無い、というスタンスで書かれたのかもしれない。それにしては、通り一遍な描き方だが。

とはいえ、そのマイナーな「東ゴート」に焦点を当てた作品が文庫本で提供されているというのは、非常にありがたい話だ。
なお、同じ著者で、このあたりの時代の民族に焦点を当てたものとして『ヴァンダル興亡史』という作品があるのだが、残念ながら絶版だった。。。読みたいと思ったのに。。。



ダン・アリエリー 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』

以前勤めていた会社で、僕は、社長命令と職業的良心との板挟みに苦しむことが多々あった。
おそらく、株主からの圧力もあって利益を重視しなければならなかったのだろうが、かなり黒に近いグレーな行為を、経営判断という一言で片付けて強引に推進しようとする姿に、当時の僕は強い違和感を覚えていた。

最も不思議だったのは、なぜ社長は、そんなに物事を自分に都合よく解釈できるのだろうか、ということだった。しかも、それを詭弁とも思わず、正論であると思っているようだった。
もちろん、なにかの強いプレッシャーに晒された場合、判断にバイアスがかかるということは理解していたが、そのバイアスに自分自身が侵されていることに全く気付いていない様子なのが、不思議で仕方なかったのだ。
黒に近いグレーであることをしっかり理解した上での「経営判断」なのであれば、少なくとも僕は社長の判断力を疑ったりしなかったし、社長を信頼して命令を遂行していたかもしれない・・・。


この疑問に対する答えは、すべて 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』に説明されていた。

社長は、その会社の創業者で、創業してまだ10年も経っていなかった。
いろいろな事業を興すのが好きで、そのほとんどは採算ベースに乗っていなかったが、それでも仕組みとしてはなかなかに画期的なものが多かった。
本書によれば、そういった、創造性の豊かな人は自身の不正について正当化するのも上手いのだという。

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創造性と不正の間の関連性は、自分が正しいことをしていなくても、「正しいことをしている」という物語を自分に言い聞かせる能力と関係があるように思われてくる。創造的な人ほど、自分の利己的な利益を正当化する、もっともらしい物語を考え出せるのだ。(194ページ)
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僕は、社会に適応するために創造性を封印し、実務を如何に効率的・効果的に回すかに特化してキャリアを作ってきたので、イノベーティブな人間ではないと自覚している。だからこそ、自己正当化の上手な人に対して、吐き気がするほど拒否感を覚えるし、僕自身が自己正当化の徒に堕していないかを常に恐れている。
もちろん、如何に内省したとしても、堕している可能性は常にあると思っている。僕の弱い心はすぐに折れるし、そんな時に全く自己正当化せずにいられるほど心が強ければ、そもそもそんなに簡単に折れないのだ。
だが、正当化したストーリーとパラレルで、常に、正当化を批判する別の自分を持っておくことを心がけている、(それ自体が正当化だという見方も可能だが・・・。)

そんなわけで、本書は僕の内省をより深める示唆に富んでいた。
もちろん、ただただ内省するばかりでは気持ちが暗くなるのだが、「ずる」という悲しい現実を、シニカルな笑いに変えて表現している。
ユーモアはペーソスに裏付けられているものだということの傍証のような作品だと思う。