2014年12月20日土曜日

吉川浩満 『理不尽な進化』

近頃、あまりしっかりと読書メモを作ろうと思えるような本を読んでいなかった。
仕事が忙しすぎて、読書に頭を使うことをついつい避けてしまっていたのだ。

が、このたび『理不尽な進化』を読み、是非ともこれは書き残さなければなるまいと思い、放置していた当ブログに書き起こす次第である。
本書については、すでに知の巨人とも言える諸先生方による書評が多々ある中で、僕のような浅学の徒がナンヤカンヤ書くのも気が引けるところであるが、諸先生方の書評中に、どうしても引っかかる部分があり、自分なりの解釈をまとめたい。

ちなみに僕は、体系的に学んだことのある学問は国文学だけであり、しかも専攻は泉鏡花である。泉鏡花を研究するにあたり、それ以前の日本文学については一定の勉強をしたつもりだが、当然にして、自然科学にも西洋思想にも通じていない。通じる要素が全く無い。ドーキンスの『利己的な遺伝子』は途中で挫折し、グールドに至っては読んだこともないという門外漢である。
つまり、僕は本書を一介の読書人として、いや、読書人などと言うのもおこがましい一介のサラリーマン(しかも、ウダツの上がらぬ雑用係)としてどう読んだかを記すのみである。


まず、本書の構成であるが、序章、第一~三章、終章の全5章構成となっている。

序章から第二章までは、進化論の解説である。
その中において、「適者生存」という言葉に表される進化論に対する巷間の誤解を正し、「自然淘汰」という進化の在り方においては、「適応者=強者」が生き残るのではないということを、進化論の歴史をたどりながら解説している。

第三章では、近年まで続いたドーキンス対グールドによる論争の内容をつぶさになぞり、進化論の研究者の間では定説となっている、論争におけるドーキンスの勝利を細かく解説している。

終章においては、簡単に言えば、グールドがどこで間違ったのかについて考察を掘り下げている。
というには、終章は大変にリッチな内容で、このような捉え方は単純化しを通り越して、誤読とさえ言えるだろう。
内容については後述するが、終章のボリュームについても特筆に値する。
実はこの終章、417ページ構成の本書の149ページを占める。35%を占めるボリュームだ。5章構成の本書において、これは非常に大きな割合であると言える。それもそのはず、本書において、この終章は「起承転結」の「転」であり「結」なのだ。

どのぐらい終章に力点が置かれているか、僕がページに折り目を付けた位置の偏りからもご推察いただけるのではないだろうか。
このようなわけで、終章を中心に本書の解釈を試みたい。

この終章では、先にも述べたように「グールドはどこで間違ったのか」を扱っている。この部分について諸先生方の書評を拝見するに、「グールドを擁護」しているとし、それがロマンティシズムに過ぎるのではないかという疑義が呈されている。
もしかしたら、かつての進化論論争を知る方々は、グールドがファナティックな異端者であるという認識があるのかもしれない。そのような前提の元に終章を読めば、たしかにグールドに対して同情的であり、擁護しているように見えるのであろう。

しかし、僕は全くのド素人。幸いにもそのような観点からは自由である。
また、僕がかつて体系的に学んでいた文学という学問は、研究対象となる作家に寄り添って作品を読み解くものである。(だからこそ、「文学部の奴らは作者の気持でも考えてろ」と揶揄されるのだが。)
このため、まずは本書のテーマが何であり、著者が最も本書で言いたかったことが何なのかを明確にしつつ、本当にグールドに対して同情的、擁護的でありすぎるのかについても考えていきたい。
もちろん、寄り添っているつもりが同床異夢だった、などということは間々発生することであり、僕の解釈がその例に当たらないとは限らないので、そこはご容赦願いたい。


そもそも本書のテーマは何であるのか。
それを終章の冒頭で発見した。
それは、P.274
「グールドの敗北を知ることは、私たち自身を知ることでもあるのだ。」
このワンセンテンスに凝縮されている。

さらにその「敗北」、つまり失敗について、P.362にこのように記されている。
「首尾一貫した失敗ほど後進・後衛の私たちにとってためになるものはないのであり、そのほとんど一切合切の素材提供をグールドはひとりでやってのけたのである。」

つまり著者は、グールドの失敗が、人間が犯しやすい失敗の類型の1つと位置付け、人の思考の落とし穴を詳らかにしようとしているのである。
思考の失敗のケーススタディである。
そこから見えるのは、人間が人間であるが故に陥る思考のワナであり、その失敗が時間の経過とともに克己され、結果として過去の失敗を乗り越えていく。
それこそが本書の結論であり、それを描く上で、どうしてもグールドに焦点を当てなければならなかったのではないか。

著者の考察内容は本書を実際に読むべきであると思うので、ここでは詳らかにしないが、序章から第三章までは、グールドの失敗をケーススタディとして掘り下げるための、いわば前振りに過ぎなかったのではないかと僕は感じている。(「前振り」という言葉が軽すぎるならば、「前提の説明」と表現しても良いかもしれない。)

的外れな例えかもしれないが、司馬遼太郎が『峠』で河井継之助を描いたように、本書において著者は盛大な失敗をせざるを得なかった人間風景を浮き彫りにしたかったのではないかと、そんな考えが僕の頭から離れないのである。


まだ僕の中で消化しきれていない部分もあり、非常に雑な感想になってしまったが、読了直後としては以上のような理解をした次第だ。


なお、余談であるが、終章には、ある棋士の話として、指し手を1つ間違えていればホームレスになっていたかもしれないという感慨を述べていることを紹介している。
僕も同様の感慨を持つことはたびたびあるのだが、僕の場合は今後も「指し手を1つ間違え」る状況はいつでも訪れるであろうと思い続けている。むしろ、そういう指し手の誤りを、いつかやるに違いないという確信を持っている。
あんまり本書に関係のない話だが、なんとも感慨深かったのでここに告白する次第だ。



2013年5月6日月曜日

高野秀行 『未来国家ブータン』

みなさんは、「未来○○」というと、何を思い出すだろう?

グーグル先生の候補は「未来工業」「未来日記」が上位に来るようだが、僕は「未来警察ウラシマン」を思い出す。
「未来警察ウラシマン」は、僕が子供の頃に放映されていた、タツノコプロの王道をいくアニメ作品だ。最近、TOKYOMXテレビで再放送されている。

で、今回の話は、「未来警察」には全く関係なく、「未来国家」の話だ。

未来国家といっても、テクノロジーの進化が変な方向に向かってしまって、諸外国のオタク達から「あいつら、未来に生きている」と言われている日本のことではない。
世界一幸せな国として昨今有名なブータンのことである。

以前紹介した高野秀行さんという作家が、ブータンを「未来国家」だとした、『未来国家ブータン』という作品を、今回はご紹介したい。

本書でも、ちょっと変わった紀行という形式は踏襲されている。
今回のミッションは、ブータンにおけるバイオビジネスに関する下見と、雪男の調査だ。
これだけ言うとあまりに支離滅裂な感じだが、ビジネスに関する下見は他者からの依頼であり、このお話の発端である。その依頼に乗っかって、雪男の調査をおこなったというわけである。
著者自身は雪男が存在するなどということには懐疑的なスタンスをとっているのだが、それでも雪男ネタに釣られて辺境に旅立ってしまうあたり、早稲田大学探検部の血なのだろうか。
(著者の早稲田大学探検部の後輩である角幡唯介さんも、自身はその存在に懐疑的であるにもかかわらず雪男ネタに釣られてヒマラヤに行き、『雪男は向こうからやってきた』を著した。)

さて、著者である高野秀行さんといえば、辺境に行ってはアヘンを吸ったり大麻を吸ったり大酒を飲んだりするイメージが強い。
が、実は、年を追うごとに、そういった面が作品に占める割合が少しずつ小さくなってきている。本書でも、そこに割いた字数はかなり僅かだ。
それでいて、辺境に強いその観察眼と洞察力は磨きがかかっている。
いや、観察眼と洞察力に磨きがかかっているからこそ、酒やドラッグの話よりも、もっと書くべきことが多くなってきているのかもしれない。

今回、その観察眼と洞察力で描き出したのは、発展が周回遅れになった結果、エコのトップランナーになったブータンの姿だ。
ブータンといえば「国民総幸福量(GNH)」で有名だが、本書で特に詳しく描かれているのはそちらではなく、この国の環境保全の在り方のほうだ。その環境保全の在り方が、先進諸国が目指しても達成できない姿を体現しているため、著者はブータンを「未来国家」だとしているのだ。

もちろん、幸福に関する観察と洞察も忘れていない。
この国では、幸せになることは権利ではなく義務なのだと喝破する。
もちろん、それを語る文章はどこまでも自嘲的な高野節だ。


本書のあとに著した『移民の宴』で、著者は「初めて親戚に言える作品を書けた」と言っていたようだが(そういうことが渋谷のジュンク堂のポップに書いてあった)、本書も十分親戚に出せる内容なのではないだろうか。少なくとも、大麻もアヘンもやってないし。
それとも、そのポップの文言も単なる高野節ということだろうか。


2013年5月4日土曜日

国分拓 『ヤノマミ』

僕はあまり、アマゾンの先住民の話にはそんなに惹かれない。どう考えれば良いのか分からず、混乱してしまうのだ。

が、NHKスペシャルで採り上げられた「ヤノマミ」という先住民の話がとにかくスゴイ、という話を聞いて、ちょっと読んでおこうかと、軽い気持ちで手に取った。それが、そのNHKスペシャルの書籍化である『ヤノマミ』である。

軽い気持ちで手に取ったのだが、読み始めてみたら、なんと重いことか。

そもそも、NHKスペシャル取材班は150日間もこのヤノマミの集落に住み込み、先住民の生活に密着取材を行っている。
NHKスペシャルのプロデューサに以前聞いたことがあるのだが、NHKスペシャルのスタッフは、その都度都度、NHKの各所からスタッフをピックアップして、タスクフォースのようにチームを組むのだそうだ。
本書の著者であり、当該番組のディレクターは、どういう経緯でこの番組に携わることになったのだろうか。プロデューサ命令であったのだろうか、それとも志願であったのだろうか。ものすごく気になる。僕だったら、とてもじゃないが、150日間もヤノマミの集落に起居するなど、無理だ。

本書はまず、ヤノマミの日常を紹介するところから始まる。
日々のルーチン、ライフスタイル、ヤノマミ以外の人々に接する態度などなど。
完全に異文化である。

そこから次第に、ヤノマミのイベントごとなどの非日常の風景や、ヤノマミの人間関係など深い部分に話が進む。

後半に入ると、出産について描かれている。
そこには、我々が考えるような出産の話とは、全く異なる世界が繰り広げられる。
言ってしまえば子供の間引きなのだが、その在り方の前には、我々の倫理観などとは全く異なる世界観に支えられた、ヤノマミのエコシステム(という表現が正しいのか分からないが、他の言葉が思いつかない)の存在を突きつけられる。
古い日本社会でも、「7歳までは神のうち」という言葉に表されているように子供の間引きは存在していたわけだが、ヤノマミのそれは、日本とは大きく異なる。

さらに話は、先住民と文明社会の接触について展開する。
文明化される若い世代、それに伴って失われる固有の習俗。先住民の話を取り上げるドキュメンタリーでは定番のテーマだが、ヤノマミと150日間起居を共にした著者の筆を通してそれが語られるとき、「先住民固有の文化を守れ!」というような、単純なイデオロギーでは語ることができない葛藤を、読者である我々も共有することになる。

あとがきでは、映画監督の吉田喜重氏の言葉として
「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」
という解釈を間接的に表現している。
また、同じく、舞踏家の田中泯氏の言葉として
「分からないということは素晴らしいことなのだ」
ともしている。
そう、ヤノマミに象徴されるような、文明と先住民の問題に対して「良いこと」「悪いこと」と断じてしまうのは、単なるプロパガンダであり、ドキュメンタリーではないのだろう。
そして、読者としての僕の中にも、重たい何かがズシリと残り、持って行き場が無い。


余談だが、村上春樹さんの『1Q84』の中に、文明側が道路を作ったにもかかわらず、その道路を避けるように歩く先住民の話が登場するが、あれはどこの先住民だったか。
ヤノマミもまさに、道路を避けて歩く。
『1Q84』では、道路を避けて歩く理由が述べられていなかったが、本書では単純に、道路は直射日光がキツくて熱いからだと述べられていた。
意外と、物事の答えなんて単純なものなのかもしれない。


追記:
NHKオンデマンドで、テレビ版を視聴した。
映像が伴うと、書籍とはまた異なったインパクトを受けた。
が、70分ちょっとという短い時間の中で伝えられることは、そう多くない。
やはり書籍を読むべきだと強く思う。
書籍を読んで初めて、取材者の見たこと、感じたことをよりダイレクトに理解することができると思う。

松谷健二 『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』

先日『ローマ人の物語』を読み終え、古代ローマの次の時代に取り掛かろうとしている。
が、その前に、西ローマ帝国を滅ぼして、一瞬のうちに歴史の表舞台から消えてしまった東ゴートを理解しておこうと思い、『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』を読んだ。

僕は歴史学者になりたいわけではないので、大まかな流れが分かれば良い。このぐらい柔らかくて、この程度のボリューム感で十分だろうと。

本書は『ローマ人の物語』の43巻とほぼ同じ時代を描いている。
ただ、東ゴートに焦点を当てているので、ローマ史に登場する前のゴート人の話や、『ローマ人の物語』以降の東ゴートの行方についても描かれているが、ページ数でいえば非常に僅かだ。

『ローマ人の物語』では、あくまで「ローマ」に主眼があっての東ゴートであったのだが、本書は当然ながらあくまで東ゴートの動静をなぞっている。そういう意味では、違う視点から同じ時代、同じ地域の歴史をなぞることができる。

が、正直なところ、直前まで読んでいた『ローマ人の物語』の出来と、ついつい比較してしまう。
やっぱり塩野七生さんの腕前はスゴイ。。。

本書は、誰のために書かれているのか、その文章運びからは伺うことができないのだ。
というのも、説明も無しにいきなり登場する人物とか、さも周知のことであるかのように描かれる挿話とか、その都度「あれ、この前に何か書いてあったっけ・・・?」と、その度に前を探さなければならないようなことが多かったのだ。
一定の知識を持っている人間が読むにしてはライトすぎるし、かといって、知識の無い人間が読むには説明の段取りが悪すぎる。『ローマ人の物語』を読んだ後でなかったら、なにがなんだかサッパリ分からなかったと思う。
が、そもそも「東ゴート」などというマイナーな存在に焦点を当てた本をわざわざ読もうという人間が、まるっきり知識を持っていないということは無い、というスタンスで書かれたのかもしれない。それにしては、通り一遍な描き方だが。

とはいえ、そのマイナーな「東ゴート」に焦点を当てた作品が文庫本で提供されているというのは、非常にありがたい話だ。
なお、同じ著者で、このあたりの時代の民族に焦点を当てたものとして『ヴァンダル興亡史』という作品があるのだが、残念ながら絶版だった。。。読みたいと思ったのに。。。



ダン・アリエリー 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』

以前勤めていた会社で、僕は、社長命令と職業的良心との板挟みに苦しむことが多々あった。
おそらく、株主からの圧力もあって利益を重視しなければならなかったのだろうが、かなり黒に近いグレーな行為を、経営判断という一言で片付けて強引に推進しようとする姿に、当時の僕は強い違和感を覚えていた。

最も不思議だったのは、なぜ社長は、そんなに物事を自分に都合よく解釈できるのだろうか、ということだった。しかも、それを詭弁とも思わず、正論であると思っているようだった。
もちろん、なにかの強いプレッシャーに晒された場合、判断にバイアスがかかるということは理解していたが、そのバイアスに自分自身が侵されていることに全く気付いていない様子なのが、不思議で仕方なかったのだ。
黒に近いグレーであることをしっかり理解した上での「経営判断」なのであれば、少なくとも僕は社長の判断力を疑ったりしなかったし、社長を信頼して命令を遂行していたかもしれない・・・。


この疑問に対する答えは、すべて 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』に説明されていた。

社長は、その会社の創業者で、創業してまだ10年も経っていなかった。
いろいろな事業を興すのが好きで、そのほとんどは採算ベースに乗っていなかったが、それでも仕組みとしてはなかなかに画期的なものが多かった。
本書によれば、そういった、創造性の豊かな人は自身の不正について正当化するのも上手いのだという。

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創造性と不正の間の関連性は、自分が正しいことをしていなくても、「正しいことをしている」という物語を自分に言い聞かせる能力と関係があるように思われてくる。創造的な人ほど、自分の利己的な利益を正当化する、もっともらしい物語を考え出せるのだ。(194ページ)
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僕は、社会に適応するために創造性を封印し、実務を如何に効率的・効果的に回すかに特化してキャリアを作ってきたので、イノベーティブな人間ではないと自覚している。だからこそ、自己正当化の上手な人に対して、吐き気がするほど拒否感を覚えるし、僕自身が自己正当化の徒に堕していないかを常に恐れている。
もちろん、如何に内省したとしても、堕している可能性は常にあると思っている。僕の弱い心はすぐに折れるし、そんな時に全く自己正当化せずにいられるほど心が強ければ、そもそもそんなに簡単に折れないのだ。
だが、正当化したストーリーとパラレルで、常に、正当化を批判する別の自分を持っておくことを心がけている、(それ自体が正当化だという見方も可能だが・・・。)

そんなわけで、本書は僕の内省をより深める示唆に富んでいた。
もちろん、ただただ内省するばかりでは気持ちが暗くなるのだが、「ずる」という悲しい現実を、シニカルな笑いに変えて表現している。
ユーモアはペーソスに裏付けられているものだということの傍証のような作品だと思う。


2013年4月29日月曜日

京極夏彦×柳田國男 『遠野物語 remix』

僕は大学時代、国文学を専攻していた。
民俗学も国分学科の中の専攻課題のバリエーションに含まれていたので、僕の友人にも何人か民俗学にハマったヤツがいた。夏休みを利用して、『遠野物語』の舞台である岩手県遠野に1ヶ月間「留学」に行ってしまったヤツもいたぐらいだ。

そんな國分学科の教授陣には、柳田國男の直弟子というのがいて、外見はスターウォーズに出てくるヨーダに似ているおじいちゃんだった。
その教授は、学生が研究上の相談を持ちかけると、パンパンに資料の詰まった分厚いカバンから資料を瞬時に抜き出し、学生に提示するのである。
学生側は、よくすぐに見つけられるものだと唖然とするのが毎度のことだった。

当然、紙がそんなにパンパンに入っているカバンだから、ものすごく重い。
学生がたまにカバン持ちをするのだが、ひ弱なよく文学科の学生では、両手で持ってもシンドイぐらいだった。
そんなものすごく重いカバンを小さなおじいちゃんであるその教授は、片手で持ってさっそうと歩くのだ。なんとも不思議でならなかった。

その教授は、そのカバンを持って全国にフィールドワークに飛び回っていて、目的物を見つけると、途中に田圃があろうが用水路があろうが一直線に向かっていくという伝説を持っていた。
当然、ズボンも靴も泥だらけになる。でも、そんなことは気にも留めない。

学生たちは皆、その教授に対しては、「民俗学で妖怪の研究をしていたら、自分も妖怪になっちゃったんだね、きっと」と、変に納得していた。(もちろん愛情を込めて。)

そんな環境にいながら、僕は民俗学まで手が回らず、柳田國男の著作はほとんど読まなかった。
だから、「柳田國男」と聞くと、本人ではなく、上記の教授を思い出すのである。

そんな不肖の学生であった当時から約20年経った今でも、僕は柳田國男の著作を読まないことに関しては何も変わらない。
民俗学に興味が無いわけではないし、実際、民俗学関連の書籍を読むこともあるのだが、なんとなく柳田國男には食指が動かなかった。


そんな僕にとって、もしかしたら柳田國男への第一歩となるかもしれない書籍が出版された。
それが『遠野物語 remix』である。

その出版を知ったのは、よりによってテレビ番組『王様のブランチ』である。(恥)
本書の出版にあたって、著者の京極夏彦さんがインタビューに答えていたのだ。
インタビューによると、当初の出版社からの依頼は、『遠野物語』の現代語訳を書いて欲しいということだったそうだ。京極さんは、そんなのはツマラナイから受けない、と断ったそうだ。現代語訳なんて、自分じゃなくてもできるだろう、と。
そこで、この『遠野物語 rimix』は、柳田國男が話題の関連性も何も関係なくバラバラに書いているものを、関連する項目ごとに並べ直して、また、大胆な意訳までして、まさに「rimix」したものだそうな。

インタビューを見て、まず、『遠野物語』に現代語訳が必要だということに驚いた。たしか、『遠野物語』の成立は大正時代じゃなかったか? もはや大正時代の文章も「古典」なのだろうか。。。
明治時代あたりはまだ日本語が定まっていなくて、いわゆる「明治文語文」と言われるような文体で、日本人が日本語を探っていた時代なので、読解にはある程度の習熟を必要とすると思うが、大正ともなれば、今の日本語とそう変わらないような気がするのだが。。。


さて、肝心の『遠野物語 rimix』だが、さすが小説家の文体である。学者の文章と違って、やはり読ませる。
とはいえ、小説のような起承転結を期待して読めば、それは肩すかしを喰らうだろう。なにせこれは、そもそもが遠野に伝わる伝承や怪異譚をメモしたものなのだから。オチも無ければヤマも無い、という類の話も多い。『今昔物語』や『日本霊異記』のような伝承文学の類と同じで、何にでもオチや因果関係を求める現代人にはモヤモヤすることこの上ない。が、伝承とはそういうものなのである。
話は逸れるが、その手のオチも因果関係も何も無い伝承文学に、近代啓蒙思想を吹き込んでオチを作ってしまったのが、芥川龍之介の功罪である。

京極さんは、芥川のようなへんな尻尾を付けることなく、『遠野物語』の意訳に留めている。それは、偉大な先人に対する敬意によるのか、それとも・・・。

これをきっかけに柳田國男をほじくり返してみるのも悪くないかもしれない。
その際には、対立関係にあった折口信夫も読んでおかないとバランスが悪くなるかもしれない。
うーん、、、世の中には読むべき本が多すぎて、とても1回の人生では読みきれないことだなぁ。。。


ちなみに、実は僕は、京極夏彦さんの作品は一切読んだことが無い。というか、読まないようにしている。
30歳以降、極力小説を読まないようにするという枷を己に課しているためだ。たぶん、読んだら帰って来れなくなる自信があるので、社会生活を営むためのやむを得ない処置である。
だから、本書と京極さんの小説でどのような類似点(または相違点)があるのかについては、皆目分からないので、悪しからず。



2013年4月28日日曜日

塩野七生 『ローマ人の物語43 ローマ世界の終焉(下)』

『ローマ人の物語』文庫版43冊目。
ローマ人の物語は、これで完結である。

かねてから著者は、オリエントな東ローマ帝国は非ローマだというスタンスを取っていた。
それがここに来て、「東ローマ帝国」という言葉を使わず、「ビザンツ」「ビザンチン」という言葉を使うようになったところにも現れているように感じた。

42巻ですでに西ローマ帝国は滅んだ。
43巻に描かれているのは、西ローマ帝国が滅んだあとの跡地での出来事である。
なぜ、著者はそこまで書き進めたのか。
思うに、それは本書が「ローマ帝国の物語」ではなく、「ローマ人の物語」だからなのだろう。

195ページに、プロコピウスの「ゴート戦記」を引用して、以下のように記述している。
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これが、かつては世界中の人々から憧憬の念で見られていた、輝けるローマ市民の現在の姿であった。
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つまり、ここまで描ききることによって、本当の「ローマ人」の終わりまでを描こうとしたのだろうと。


この43巻は、次に訪れる中世暗黒時代の到来を示すような記述にも溢れている。
その一例が、155ページ。
ローマ防衛のためにベリサリウスが城壁の補強工事を急いでいる際の様子について。
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カトリックの聖職者たちは、その部分の城壁は完璧だから補強の必要はない、と言う。なぜかと問うたベリサリウスに、聖職者たちは答えた。聖ペテロが守護しているという伝承があるからだ、と。
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この論理破綻の在り方は、アメリカの保守派による進化論否定にも引き継がれているのではなかろうか。