2013年3月29日金曜日

塩野七生 『ローマ人の物語 37 最後の努力(下)』


塩野七生さんの大作『ローマ人の物語』を文庫版で読み始めて、ようやく37冊目。
すでにローマ帝国は「古代」ではなく「中世」の草創期の様相を呈してくる。

「最後の努力」と題された36冊目、37冊目は、コンスタンティヌス帝の治世について語られている。
このうち、37冊目(文庫版の「(下)」)は、コンスタンティヌスの権力奪取の経過の振り返りと、コンスタンティヌスによる対キリスト教政策について解説されている。

僕自身は、一神教という名の部分最適に対する違和感がどうしても拭えないでおり、なぜ世界の多くの地域で一神教が崇められているのか理解に苦しんでいたのだが、本書を読んで、その答えに対するヒントを得たような気がする。

例えば、93ページに以下のようなことが書かれている。
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一神教による弊害はこの一千年後になってはじめて明らかになることであって、多神教が支配的であった古代の人々の考えの及ぶところではなかったのである。
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一千年後というと、十字軍のことを指しているのだろうか。

また、107ページには、キリスト教の教義の解釈でアリウス派とアタナシウス派が対立していたことについて述べる中で、以下のようなことが書かれている。
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人間は、真実への道を説かれただけでは心底から満足せず、それによる救済まで求める生き物だからである。
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やはり、考えることよりも信じることのほうが楽なんだろうな、と思う。
僕には無理だけど。


なお、本書は、あくまで作家である塩野七生さんの史観に基づく著作なので、これを鵜呑みにすることは司馬遼太郎の『坂の上の雲』で日本史を学ぶのと同じぐらい危ういことだと思って警戒しつつ読み続けているのだが、やはりどうしてもこの史観に引き寄せられる。

足腰のしっかりした文体、ストーリーテラーとしてのテンポの良さ、そして、主旨の明快な語り口。
どれをとっても引き込まれずにはいられない。

2013年3月21日木曜日

長沼毅 『形態の生命誌』

長沼毅という生物学者について、誰かが「生物学界のインディージョーンズ」と呼んでいた。
それで興味を持ち、とりあえず取っ付きやすそうな著作を1冊選んで読んでみたのが、本書『形態の生命誌』である。

生物学の一ジャンルとして形態学というのがあるそうで、生物の構造と形態についての研究を行う学問だそうな。

で、読んでみたら、形態学は著者の専門外だそうで。



ギャフン。



でもまあ、せっかく買ったので、勉強し直しのつもりで読んでみよう。話題はそれなりに多岐に渡っているようだし。

ちなみに僕は、大学入試の時(もうウン十年前の話だ)、センター試験では生物を選択した。
生物は他の理科の科目と違い、読解力だけで6割は正解できる不思議な科目だったからだ。
そんなわけで、高校の時には生物の勉強を基本的にサボっていたし、それ以降もちゃんと勉強したことは無い。
だから、本書に書かれているような知識も、「どっかで聞いたような・・・」というレベルから、そもそも全く初見のものまで色々だ。
ただ、著者の語り口が軽妙で、私立文系出身の僕でも飽きることなく読み通せた。


最も衝撃を受けたのは、オウム貝の巻き方の法則が黄金比率によるものではないということ。
なんだよ、耳学問で聞きかじった話はウソだったのか!
やっぱり、受け売りの知識では大やけどをするということだ。

また、簡単なルールで複雑な形を生成するLシステムと、それを数列化したフィボナッチ数列については、ネット業界に長く勤める者としてはgoogleの検索アルゴリズムのことに思いを馳せずにはいられなかった。


なお、本書においては「インディージョーンズ」としての側面はほとんど垣間見ることができなかった。
最後の方にちょこっとだけ「南極に行った」と書いてあっただけ。
また改めて別な著作を探ってみたい。




橘玲 『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』

最近評判のアベノミクス。
経済学者はその効果(もしくはリスク)について、明けても暮れても百家争鳴。
僕はお金の話が苦手なので、果たして誰が言っているのが本当のことなのか、さっぱり分からない。
そんなとき、橘玲さんが新刊を出した。
それが本書『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』だ。

橘玲さんは、最近でこそ行動経済学や社会学全般に手を広げた著作が多いのだが、もともとは外貨や証券による海外資産でのリスクヘッジを提唱する著作が多かった。
そういう意味では、久しぶりの資産運用に関する著作だ。
だが、本書は単なる資産運用のハウトゥ本ではない。
アベノミクスの目指すところと、それが失敗に終わった時のシナリオを提示し、それに合わせた段階的資産運用方法が解説されている。
つまり、アベノミクスの平易な解説書でもあるのだ。

正直なところ、僕は資産運用に興味があまり無いので、橘玲さんの資産運用関連の著作は読んだことが無いのだが、行動経済学関連や社会学関連の著作はひととおり読んでいるし、ブログも読んでいる。なので、著者がどのようなスタンスの人なのかを一定程度理解しているから、本書に書かれた内容もどう理解すれば良いかが分かるので、安心して読める。
これが、よく知らない証券会社上がりの経済評論家の書いたものなんて、どういうスタンスなのかを知らずに読んだら、こっちが痛い目に遭ってしまう。

もちろん本書は、リスクに対する対策を解説した本であるので、国家財政が破綻するシナリオも提示されているのだが、その危機感をいたずらに煽るのではなく、あくまで可能性の一つとして提示するに留められている。実用書として非常に良心的な作りになっていると感じられた。

橘玲さんの著書は、本書も含め、非常に細かくロジックを積み重ねていくので、文章に派手さは無い。その分、初学者にも分かりやすい。
本来、学問はこういう言葉で語られるべきなのだと、つくづく思う。



2013年3月16日土曜日

ショーン・エリス、ペニー・ジューノ 『狼の群れと暮らした男』

前回のエントリーでは、頂点捕食者が生態系の要であること、そして、そういった頂点捕食者の一種としてのオオカミがイエローストーン公園に再導入されたことによる生態系への好影響について触れた。

実際、狼を日本に再導入しようとしている人達は、このイエローストーン公園の事例を非常にありがたがり、成功事例として喧伝している。
ただ、どうも僕には、イエローストーンの事例をそのまま日本に当てはめられるのか、釈然としない。

そんなわけで、オオカミ関連の文献をコツコツと読み漁っているのだが、その一環として今回は『狼の群れと暮らした男』を読んでみた。

著者はショーン・エリスとペニー・ジューノの2人ということになっているが、著者紹介にはショーン・エリスしか載っていないし、本書はショーンの一人称スタイルで語られていて、ペニーの気配はどこにもない。本文中にも登場しない。
もしかしたら文章を担当したのがペニーなのか。よくわからない。

本書は、オオカミと共に生きるショーン・エリスの半生を一人称形式で語った作品だ。
このショーン・エリスは、イギリスやアメリカのテレビ番組などにたびたび出演しているようだが、実は2010年に日本のテレビにも出演している。
それは、2010年2月28日放送の『世界の果てまでイッテQ』の珍獣ハンター・イモトのコーナーだ。イモトがオオカミの群れに混ざるという企画で、ショーンの運営するクームマーティン・パークを訪れたのだ。
残念ながら、本書にはそのことは全く触れられていないが、興味のある方はネットで探すと動画が見つかるかもしれない。

さて、肝心の本書であるが、オオカミの生態ではなく、オオカミと暮らした男の生態が描かれているといったほうが、より適切な印象を抱いた。
が、そこは流石「オオカミと暮らした男」、オオカミの生態についてもかなりのボリュームを割いて解説している。とはいえ、そのアプローチは「暮らした」という観点からであり、大部分を経験論で占められている。
ショーンの展開するロジックが、あくまで経験に基づいた論であるところが、生物学者のカンに障るのだろう。本文中でも度々、生物学者たちから受け入れられない状況に言及されている。

しかしながら、ショーンの経験は、動物園の飼育員程度の経験とはモノが違う。
飼育下に無い野生のオオカミの群れに交じって、しかもその群れの中で最下位のポジションとして2年間もの間、オオカミと同様の生活(そう、風呂にも入らず寝具も用いず、食料もオオカミと同じものを食べて)を送った。
外から観察しなければ客観性を担保出来ないという考え方もあるかもしれないが、内在理論は中に入ってみなければ見えてこない。それは、人間でも動物でも同じではないだろうか。

そんなわけで、これまでいろいろな本を読んでモヤモヤしていたオオカミ問題について、本書を読んで非常にクリアになった部分がたくさんあった。

まず、日本オオカミ協会がいうような、日本の山にオオカミを再導入するのは、麓に住む人間にとって危険ではないという主張は、大きく前提条件を欠くものではないか、ということである。
ちゃんと管理をしなければ、酪農や人間に対する被害だって普通に発生するのだ。
その管理というのも、オオカミを管理するというよりも、環境自態を管理する必要がありそうだ。

実際、本書には、ポーランドでの家畜や犬に対する被害、カナダで単独行のハイカーに対する被害が紹介されていた。

著者であるショーンは、オオカミと人間の垣根を取り払うべく尽力しているわけだが、その彼においてすら、現状においてオオカミ再導入に諸手を挙げて賛成しているわけではないことが、本書の強いメッセージとして読み取れる。オオカミを再導入するということは、オオカミを放てば良いということではないのだ。
つまり、オオカミと人間が棲み分けできる環境を整えなければいけないのだ。その点が、日本オオカミ協会の主張では非常に脆弱な印象を受けるのである。
当然、生態系の破壊をこれ以上進めてはならないという思いは、僕とて同じではあるのだが。



2013年3月12日火曜日

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 『捕食者なき世界』

近所に、手頃な書店が2軒ある。
その書店のいずれかには、東京を離れている時でなければほぼ毎日のように立ち寄るのだが、それぞれの書店で書棚の作り方に特徴があって、目立つように平置きされている本が大きく異なっている。それが、それぞれの書店の生き残り戦略なのだろう。

そのような書店の片方で、長きに渡って生物学関連のコーナーに置かれていたのが『捕食者なき世界』だ。
この本は、なぜかAmazonの「おすすめの本」でもしつこく僕向けにレコメンドされていた本なので、気にはなっていた。
そして、ついに根負けして購入するに至ったのだ。

読み始めると、覚醒効果のある葉っぱでも噛んだかのように、脳にダイレクトに刺激が伝わるような内容だった。
あっというまに読書メモに文字をびっしり書き込むことになった。


本書の全体を通してのテーマは、食物連鎖の頂点に君臨する捕食者こそが生態系の番人であり、頂点捕食者(トッププレデター)がいなくなると食物連鎖の下位の生物が増殖して生態系が大幅に崩れ、最終的には見るも無残なほどに自然が破壊される、ということだ。
本書では、それを補強するような研究事例や、それらの研究の歴史などを紐解き、帰納法的にテーマを掘り下げていく。

その1つの例として取り上げられているのが、アメリカのイエローストーン国立公園にオオカミが再導入されたことによる生態系へのプラスの効果についてだ。
かつて西洋において憎まれ役でしかなかったオオカミは、白人のアメリカ入植以降、ひどい迫害を受け続け、ついには絶滅しかける状態にまで至った。なかでも、国立公園として海外にまでその名が知られるイエローストーン国立公園では、園内に限って言えばオオカミは絶滅した。
オオカミが絶滅して以降、公園にはシカが大繁殖し、若木を食い荒らし、公園の緑は荒れてしまった。
そこに、再びオオカミを他所から連れてきて放ったところ、生態系のバランスに回復の兆しが見えてきたということだ。

実はこの話は、僕もよく知っている。
これに類似した話は、アメリカだけでなく、ドイツにもポーランドにもある。
なぜそんなことを知っているのかというと、日本にもオオカミ再導入を唱える人たち(日本オオカミ協会という団体がある)がいて、その人たちによる著作を読んだからだ。
(興味がある方は、こちらの記事をご覧ください。)

僕は奥多摩や丹沢、奥秩父の山々を歩きながら、シカの害を肌身に感じることが非常に多い。
このため、狩猟免許を取得してシカ猟することで、少しでもシカの害を食い止めることに役立てないだろうかという思いを強く持っている。
日本オオカミ協会の人たちは、「狩猟で解決するには、日本のハンター達は高齢になりすぎた」というロジックでオオカミの再導入を推進するのだが、そこに僕は常に論理の飛躍を感じていた。
オオカミ再導入にあたってのリスクと、日本のハンターの若返り施策の実現性を天秤にかければ、若手のハンターを育成する方が現実的なんじゃないかと思うからだ。

でも、本書『捕食者なき世界』によれば、僕のその考えは間違いだということになる。
被食者(捕食者の餌となる生物。オオカミに対するシカなど)は、捕食者が常に周辺をウロウロしているという危機感を感じることにより、その行動が抑制され、その抑制された分だけ植生に対する食害が抑えられるというのだ。
つまり、シカの頭数の問題だけでなく、シカの行動そのものをどれだけ抑えられるのか、ということなのだ。
たしかに、丹沢あたりの鹿は、まるで禁猟区を知っているかのように、猟が解禁されると禁猟区に逃げていき、そこで木々が枯れるまで芽でも葉でも食い荒らすのだ。

本書は、日本オオカミ協会の人たちよりも、オオカミ再導入についての説得力があった。
唸るしかない。

ううむ。。。


2013年3月9日土曜日

佐藤優 『佐藤優のウチナー評論』

鈴木宗男氏に連座して外務省を追われた佐藤優氏は、現在はさまざまなメディアで精力的に情報発信をする作家に転身した。
その情報発信スタンスは、氏が外務省官僚であったころに学んだインテリジェンス(情報収集・分析)と、官僚になる前から取り組んでいる神学やマルクス経済学をベースにしている。
論考は常に鋭く、緻密だ。

そんな佐藤氏の著作は硬軟織り交ぜて多数世に出ているが、僕はそのうちの10作品程度をすでに読んでいる。
他の作品は今のところ、まあ、読まなくてもいいだろうと判断して手をつけるつもりはないものだ。

Amazonで出版情報を見ていたらもうすぐ新作が出るようなので、それを心待ちにしていたのだが、先日沖縄に所要で出かけた際に空港の書店で、これまで見たことのない佐藤氏の著作を見つけた。
表紙に佐藤氏の顔写真がデカデカを使われているのだが、それ自体は氏の著書では珍しいことではない。問題は、その表紙の写真が、やや粗いのだ。
この粗さはもしかして、ローカルな出版社が講演集でも編んで出しているのか?と思って手にとってみると、出版元は琉球新報社。沖縄のローカル新聞社だ。
内容は、その琉球新報社が発行している琉球新報に連載された、佐藤氏の評論をまとめたものだった。丁寧に、著者本人によるまえがきとあとがきも添えられている。

その本のタイトルは『佐藤優のウチナー評論』。

Amazonを見たら、データはあるものの取り扱いは無かった。

内容は、母親が沖縄の出身である著者が、自身の中の沖縄の血を沸き立たせながら、沖縄が現在(連載当時)立たされていたさまざまな問題に対しての処方箋を熱く書き綴っている、という感じである。
マニアックな知識を前提として書き進めるスタイルは著者の他の著書と変わらないが、沖縄ローカルの新聞での週一連載であることを意識してか、多少は解説的な言い回しも多いような気がする。
その代わり、沖縄に関するような話は、ヤマトンチュにはピンと来ないような話も無解説だ。
たとえば、「おもろそうし」とか「八八八六」とか。
きっと沖縄の人ならば解説無しでピンとくるカルチャーなのだろう。

主なテーマの1つとして、沖縄が政治的に割を食っている現状を改善するための提言、特に中央官僚と戦うための処方箋にかなりの項を費やしている。
連載当時、まだ籍は外務省に残っていた著者だからこそ、独自の視点として語るべきことを語ったのだろう。

本書を読んで、東京在住の中年サラリーマンである僕には、具体的な行動に落とし込めるような示唆は現時点では何も無いのだが、沖縄の置かれた状況・立場を理解するという意味では大いに役立ったと思っている。
少なくとも在京大手の新聞社が報じる沖縄の姿よりも、より体系だった理解が促される内容であった。



2013年3月2日土曜日

ローリー・スチュワート 『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』

一般の旅行者が近寄れないような危険地帯についての情報は、非常に限られた経路でしか入手できない。それでは、仮に偏向した情報であったとしても、それが正当かどうかの判断を下すことができない。
そういった状態に僕は、非常に非常に非常に不快感を感じるのだ。
かといって、命懸けで一次情報を取りに行くほどのリスクテイカーでもない。

そんなハンパ者の自分には、自らリスクを引き受けて治安の悪い地域をリポートしてくれる本はこの上なくありがたい。
今回取り上げる 『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』は、まさにそういった作品だ。

イギリス人である著者は、なぜか自らの意思で、2000年~2002年にかけての19ヶ月間でアフガニスタンを歩いて横断した。その際の模様を記したのが本書である。
なぜ著者はアフガニスタンを歩いて横断したのか、本書を読んでもよく分からない。が、歩いて旅をすることにより、その土地の人や風土を肌感で理解することを目的としたのかもしれない。

文章は、残り1割になるまで、淡々とした記述が続く。
解説や背景の説明は非常に少ないので、なんだかよく分からないままに旅が進んでいく。
ページだけが進んでいき、アフガニスタンに関する知見が深まるわけでもない。
苦労して旅をしているのは伝わってくるし、危険な目に遭っているのも分かるのだが、それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、残り1割ぐらいになって、急に筆致が変わる。
やっと著者の思いの片鱗が、具体的な言葉として現れてくるのだ。
だが、その時点ではもう旅の終わりが間近だ。
そして、決してハッピーエンドとは言えない結末。すごくモヤモヤする。


なお、先日取り上げた 『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』でも記載があったのだが、本書でもイスラム教徒の犬嫌いが色濃く描かれている。
なんというか、特定の生き物を「不浄」とするのって、なぜなのだろうか。