2013年4月29日月曜日

京極夏彦×柳田國男 『遠野物語 remix』

僕は大学時代、国文学を専攻していた。
民俗学も国分学科の中の専攻課題のバリエーションに含まれていたので、僕の友人にも何人か民俗学にハマったヤツがいた。夏休みを利用して、『遠野物語』の舞台である岩手県遠野に1ヶ月間「留学」に行ってしまったヤツもいたぐらいだ。

そんな國分学科の教授陣には、柳田國男の直弟子というのがいて、外見はスターウォーズに出てくるヨーダに似ているおじいちゃんだった。
その教授は、学生が研究上の相談を持ちかけると、パンパンに資料の詰まった分厚いカバンから資料を瞬時に抜き出し、学生に提示するのである。
学生側は、よくすぐに見つけられるものだと唖然とするのが毎度のことだった。

当然、紙がそんなにパンパンに入っているカバンだから、ものすごく重い。
学生がたまにカバン持ちをするのだが、ひ弱なよく文学科の学生では、両手で持ってもシンドイぐらいだった。
そんなものすごく重いカバンを小さなおじいちゃんであるその教授は、片手で持ってさっそうと歩くのだ。なんとも不思議でならなかった。

その教授は、そのカバンを持って全国にフィールドワークに飛び回っていて、目的物を見つけると、途中に田圃があろうが用水路があろうが一直線に向かっていくという伝説を持っていた。
当然、ズボンも靴も泥だらけになる。でも、そんなことは気にも留めない。

学生たちは皆、その教授に対しては、「民俗学で妖怪の研究をしていたら、自分も妖怪になっちゃったんだね、きっと」と、変に納得していた。(もちろん愛情を込めて。)

そんな環境にいながら、僕は民俗学まで手が回らず、柳田國男の著作はほとんど読まなかった。
だから、「柳田國男」と聞くと、本人ではなく、上記の教授を思い出すのである。

そんな不肖の学生であった当時から約20年経った今でも、僕は柳田國男の著作を読まないことに関しては何も変わらない。
民俗学に興味が無いわけではないし、実際、民俗学関連の書籍を読むこともあるのだが、なんとなく柳田國男には食指が動かなかった。


そんな僕にとって、もしかしたら柳田國男への第一歩となるかもしれない書籍が出版された。
それが『遠野物語 remix』である。

その出版を知ったのは、よりによってテレビ番組『王様のブランチ』である。(恥)
本書の出版にあたって、著者の京極夏彦さんがインタビューに答えていたのだ。
インタビューによると、当初の出版社からの依頼は、『遠野物語』の現代語訳を書いて欲しいということだったそうだ。京極さんは、そんなのはツマラナイから受けない、と断ったそうだ。現代語訳なんて、自分じゃなくてもできるだろう、と。
そこで、この『遠野物語 rimix』は、柳田國男が話題の関連性も何も関係なくバラバラに書いているものを、関連する項目ごとに並べ直して、また、大胆な意訳までして、まさに「rimix」したものだそうな。

インタビューを見て、まず、『遠野物語』に現代語訳が必要だということに驚いた。たしか、『遠野物語』の成立は大正時代じゃなかったか? もはや大正時代の文章も「古典」なのだろうか。。。
明治時代あたりはまだ日本語が定まっていなくて、いわゆる「明治文語文」と言われるような文体で、日本人が日本語を探っていた時代なので、読解にはある程度の習熟を必要とすると思うが、大正ともなれば、今の日本語とそう変わらないような気がするのだが。。。


さて、肝心の『遠野物語 rimix』だが、さすが小説家の文体である。学者の文章と違って、やはり読ませる。
とはいえ、小説のような起承転結を期待して読めば、それは肩すかしを喰らうだろう。なにせこれは、そもそもが遠野に伝わる伝承や怪異譚をメモしたものなのだから。オチも無ければヤマも無い、という類の話も多い。『今昔物語』や『日本霊異記』のような伝承文学の類と同じで、何にでもオチや因果関係を求める現代人にはモヤモヤすることこの上ない。が、伝承とはそういうものなのである。
話は逸れるが、その手のオチも因果関係も何も無い伝承文学に、近代啓蒙思想を吹き込んでオチを作ってしまったのが、芥川龍之介の功罪である。

京極さんは、芥川のようなへんな尻尾を付けることなく、『遠野物語』の意訳に留めている。それは、偉大な先人に対する敬意によるのか、それとも・・・。

これをきっかけに柳田國男をほじくり返してみるのも悪くないかもしれない。
その際には、対立関係にあった折口信夫も読んでおかないとバランスが悪くなるかもしれない。
うーん、、、世の中には読むべき本が多すぎて、とても1回の人生では読みきれないことだなぁ。。。


ちなみに、実は僕は、京極夏彦さんの作品は一切読んだことが無い。というか、読まないようにしている。
30歳以降、極力小説を読まないようにするという枷を己に課しているためだ。たぶん、読んだら帰って来れなくなる自信があるので、社会生活を営むためのやむを得ない処置である。
だから、本書と京極さんの小説でどのような類似点(または相違点)があるのかについては、皆目分からないので、悪しからず。



2013年4月28日日曜日

塩野七生 『ローマ人の物語43 ローマ世界の終焉(下)』

『ローマ人の物語』文庫版43冊目。
ローマ人の物語は、これで完結である。

かねてから著者は、オリエントな東ローマ帝国は非ローマだというスタンスを取っていた。
それがここに来て、「東ローマ帝国」という言葉を使わず、「ビザンツ」「ビザンチン」という言葉を使うようになったところにも現れているように感じた。

42巻ですでに西ローマ帝国は滅んだ。
43巻に描かれているのは、西ローマ帝国が滅んだあとの跡地での出来事である。
なぜ、著者はそこまで書き進めたのか。
思うに、それは本書が「ローマ帝国の物語」ではなく、「ローマ人の物語」だからなのだろう。

195ページに、プロコピウスの「ゴート戦記」を引用して、以下のように記述している。
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これが、かつては世界中の人々から憧憬の念で見られていた、輝けるローマ市民の現在の姿であった。
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つまり、ここまで描ききることによって、本当の「ローマ人」の終わりまでを描こうとしたのだろうと。


この43巻は、次に訪れる中世暗黒時代の到来を示すような記述にも溢れている。
その一例が、155ページ。
ローマ防衛のためにベリサリウスが城壁の補強工事を急いでいる際の様子について。
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カトリックの聖職者たちは、その部分の城壁は完璧だから補強の必要はない、と言う。なぜかと問うたベリサリウスに、聖職者たちは答えた。聖ペテロが守護しているという伝承があるからだ、と。
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この論理破綻の在り方は、アメリカの保守派による進化論否定にも引き継がれているのではなかろうか。


2013年4月25日木曜日

塩野七生 『ローマ人の物語42 ローマ世界の終焉(中)』

『ローマ人の物語』文庫版42冊目。

ついに西ローマ帝国が滅んだ。

本巻では、話のほとんどが西ローマ帝国で占められている。
それは、東ローマ帝国については語るべきほどのことが無いからなのか、それとも、ローマのある西ローマ帝国こそがローマであるということなのか、真意は分からない。

いよいよ西ローマ帝国が滅びるにあたって、まさに国家としての末期症状を見る思いだ。
もはやこれは、国家の体を成していないのではないかとさえ思える。
まるで昨年までの日本の民主党政権のようだ。

そして、あんなに勢いのあったフン族も霧散してしまった。
なんだか、いろんなことが呆気無い。

そんななかでも、東ローマ帝国は難事を無難に切り抜けているようで。
また、ヴァンダル族は勢いを増して勢力を拡大していく。

やはり、指導者がちゃんと機能すると、機能したなりの結果が得られるのだなぁと。
そして、指導者が機能することを私心のために妨げる人々は、どこにでもいるのだなぁと。
そのような私心を優先するクソ野郎の罠をいかにかいくぐるかも、指導者には必要な資質なのだなぁと。

勢いがあったころのローマよりも、滅び行くローマの方が、僕にとっては学びが多い。
読んでてツマランけど。



2013年4月24日水曜日

塩野七生 『ローマ人の物語41 ローマ世界の終焉(上)』

『ローマ人の物語』文庫版41冊目。
単行本では、ここからが最終巻であるが、文庫版はこのあと2冊残っている。


41巻冒頭の「カバーの金貨について」は、いきなり以下の文章から始まる。
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人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起きる悲劇、ということである。
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実際、41巻では、人材という意味では充分な人物が、縦横無尽の活躍の末、報われない死に方をしていく様が描かれている。
その「人物」とは、「最後のローマ人」と呼ばれる将軍スティリコである。

時は、テオドシウス帝が亡くなるタイミングから始まる。
テオドシウス帝は自身が死ぬに先立ち、2人の息子に分担して国を治めるように計らい、その後見役を有能で忠実な右腕であった将軍スティリコに託した。

が、結果として、2人の息子は「分担」ではなく、東と西に国を分かち、別々に治めるようになった。
これに伴い、東側の宮廷の差金で、スティリコは全ローマ帝国の軍総司令官の立場から、西側、すなわち西ローマ帝国だけの軍司令官にされてしまう。

その後、本書はスティリコを追い続ける。
東ローマ帝国に書くべきほどのことが無かったから、ということもあろうが、同時にそれは、著者が冒頭の「カバーの金貨について」で述べた、人材が活用されないことの悲劇を描きたかったからではないかと感じた。
いや、「活用されない」などという生易しいものではない。
人材であるがゆえに、使い潰され、つまらぬ最後を迎え、それを引き金に西ローマ帝国は下り坂を転がるスピードが加速度的に増していくのだ。

読んでいて、イライラする。
多くのサラリーマンは、どうしても感情移入せずにはいられないだろう。



余談だが、本書に掲載されているスティリコの肖像を見るにつけ、面長で長身であることが見て取れるのだが、そのようなビジュアルに加えさらに、使い物にならないような素人兵士を上手く使って戦績を上げるところなどから、あるコミックの登場人物を連想した。
それは『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』に登場する常木楷という登場人物だ。
常木は通称「羊飼い」と呼ばれており、凡才ぞろいの兵士(=羊)を上手く操って戦績を挙げていくという現場指揮官として描かれている。
スティリコを見ていると、どうしてもこの常木のイメージとダブってしまって、余計に感情移入をしてしまうことだ。


2013年4月18日木曜日

塩野七生 『ローマ人の物語40 キリストの勝利 (下)』

『ローマ人の物語』文庫版40冊目。

皇帝テオドシウスの治世が主たる範囲だが、テオドシウスそのものよりもむしろ、キリスト教の動向がメインで描かれている。

なにしろ、テオドシウスの治世には、ローマ帝国においてキリスト教の国教化が著しく進んだ時期である。というよりも、テオドシウスがミラノの司教アンブロシウスにコントロールされた結果、古来からのローマの神々に対する信仰を「邪教」認定したのだ。

テオドシウスの前の皇帝は皆、死の直前になって初めてキリスト教の洗礼を受けていたのだが、テオドシウスだけは、48歳で亡くなる直前ではなく、30代のうちに洗礼を受けていたのだ。
このため、神の教えを説く司教であるアンブロシウスに逆らうことのできない信徒の立場となったテオドシウスは、中世の「カノッサの屈辱」のような公式悔悛を強いられている。

そのような経緯の末、テオドシウスの治世には、ローマ帝国の都市の至るところに飾られていた彫像が、偶像崇拝の対象であるとして破壊された。
つくづく惜しいことである。


次巻以降は、単行本ではついに最終巻となる部分に差し掛かる。


2013年4月16日火曜日

塩野七生 『ローマ人の物語39 キリストの勝利 (中)』

『ローマ人の物語』文庫版39冊目。

この巻では、コンスタンティウスに反旗を翻し、結果、皇帝の座についたユリアヌスと、その死後皇帝の座を襲ったヨヴィアヌスの治世を描いている。

ユリアヌスは、コンスタンティヌスとコンスタンティウスによって推進されたローマ帝国のキリスト教化にストップをかけた皇帝であり、すでに38巻において副皇帝としての目覚しい活躍が描かれている。
が、23歳で世に出るまで幽閉状態で過ごしたユリアヌスは、やはり世事に長けていたわけではなかったかのように、39巻では描かれている。
若いうちから多くの人の中で揉まれて成長した人ではないユリアヌスが、人の心を見透かして上手く操るなどということは望むべくもないことなのであろう。

ユリアヌスによるたった19ヶ月の治世では、ローマ帝国のキリスト教化も蛮族化も、時計の針を戻すには至らなかった。
ユリアヌスの死後に帝位を襲ったヨヴィアヌスにより、ユリアヌスが発布した反キリスト教政策はすべて破棄されたからだ。
そのヨヴィアヌスも、たった7ヶ月で死亡する。

ここで、ユリアヌスとヨヴィアヌスのそれぞれの治世に対して割かれたページ数が大幅に差があることに注目したい。

19ヶ月の在位のユリアヌスに対して約120ページ。
7ヶ月の在位のヨヴィアヌスに対して約6ページ。

この差はなんであろうか。
著者の贔屓であろうか。
トピックスの量の差であろうか。

1つ言えることは、著者は、後世から「背教者」と不名誉な二つ名をつけられてしまったユリアヌスに対して、一定以上の同情と思い入れを持っていることは間違いないと思う。
それは、ページ数という定量的な尺度だけでなく、彼の失敗や死に対する、行間ににじみ出る無念の思いからも推し知れるところである。


2013年4月14日日曜日

塩野七生 『ローマ人の物語38 キリストの勝利 (上)』

『ローマ人の物語』文庫版38冊目。

内容は、大帝コンスタンティヌスが没した後の皇帝コンスタンティウスの治世について語られている。

ローマでは完全に時代が停滞して、終焉への序章がすっかり根付いた感じの時代である。
この「キリストの勝利」の冒頭では、そんな世相を反映しての市民の暮らしについて、以下のとおり描かれている。

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独身で、子もない。とはいえ、彼だけが特別ではなかった。
帝国の将来に希望がもてなくなった時代、一生を独身で通すものが珍しくなくなっていたのである。
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単行本が出版されたのは2005年なので、今ほど独身男性の増加が騒がれていない頃である。
(ちなみに、「草食男子」という言葉の産みの親である『平成男子図鑑』が単行本化されたのが2007年のことだ。)
これを現代日本を言外に想定しながら描いたのだとすれば、塩野七生恐るべしである。

なお、著者はコンスタンティウスのことをこのように評している。

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この三十代に入ったばかりのローマ帝国最高の権力者は、心配事が一つでも残っていると動きが鈍ってしまう性質だった。本質的に小心者だったのだろう。
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なんだか、自分のことを言われているようで心が痛むところである。
だからといってコンスタンティウスに感情移入するようなことはないのだが。



2013年4月7日日曜日

エリック・ワイナー 『世界しあわせ紀行』

僕は、あまり海外旅行には興味が無い。

登山が趣味なので、海外の山に行きたいとは思うが、街には興味が無い。
なので、山以外だと、せいぜい極端な場所(密林とか砂漠とか氷原とか)の紀行しか、普段は読まない。

が、『世界しあわせ紀行』は、うっかり買ってしまったので読んだ。
それは、帯に高野秀行さんが
「こんな素っ頓狂な本、私が書きたかった」
という惹句を寄せていたからだ。

高野秀行さんが「書きたかった」というぐらいだから、僕の好きなジャンルではなさそうだけれども、もしかしたら面白いのかもしれない。
やたら分厚いので、趣味が合わなかったら悲劇でしかないのだが、それでもエイヤッ!で買ってしまった。

結論から言うと、あまり趣味には合わなかった。

本書では、ジャーナリストである著者が「幸せってなんだろう?」という疑問に答えを見つけるべく、世界各国で「あなたは幸せですか?」と聞いてまわるという内容だ。
これだけ書くと身も蓋も無いが、実際これだけである。

調査対象として、本書で著者が訪れた国は、幸せの対極に位置しそうだという理由で選んだ1ヵ国(モルドバ)と、著者の母国であるアメリカを含めて10ヵ国。
著者は、どの国についても皮肉った表現で描き出している。少なくとも、幸福な人はこういう物言いをしないだろうというところに、著者の表現方法の特徴があるように感じた。
中でも、モルドバについての章は、筆が踊っているかのような、イキイキとした筆致で、幸福よりも不幸が好きなんじゃないかと思わせるに十分な佇まいだった。

内容は、正直なところ各国事情の紹介に過ぎないような気もする。「幸福」ということをキーにしているが、結局はお国事情の表面をサラッとなぞっただけのように感じた。
文章については非常に軽妙でテンポもよく、ユーモアが散りばめられている。が、これが著者のものなのか、翻訳者のお手柄なのかは、僕には分からない。

ペシミスティックな笑いを求めるならば、本書は期待に沿うこと間違い無しだが、僕が読書に求めることとは少々異なるベクトルの作品のようだ。


2013年4月2日火曜日

佐藤優 『国境のインテリジェンス』

佐藤優さんは、僕が著者名だけで著作の購入を検討する作家の一人だ。
でも、全部を購入するわけではない。テーマによってはあまり興味の無いものもあるので、ある程度は目次を見たり、パラパラとページをめくったりして考える。

正直なところ、『国境のインテリジェンス』についてはあまり購入するつもりはなかった。
同時期に観光された『新・帝国主義の時代』だけ買っておけばいいかなと思っていた。
その思いは、『国境のインテリジェンス』を買って読み終わった今も変わっていない。

佐藤優さんの著述業としての引き出しは、僕の知る限り
  • 日露外交
  • 外務省批判
  • インテリジェンス=情報収集、情報整理、人脈構築、交渉
  • マルクス経済学
  • 神学
  • 沖縄問題
  • 拘置所暮らし
というあたりが主なところではないかと思うが、本書『国境のインテリジェンス』は、この中で特に、外務省批判の部分が強く出ている著作ではないかと思う。
佐藤優さんが政治・外交について、連載形式で広いオーディエンスを想定して短めの文章を連載する場合、思いが凝縮されるのか、語気が強くなる傾向があり、かつ、その語気の強さに反比例するように論理の積み重ねが薄くなる。論理展開として性急の感を否めない。

僕は佐藤優さんの、緻密なロジックの積み重ねが好きなのだ。
『同志社大学神学部』や『紳士協定 私のイギリス物語』などのような、ゆっくりとした展開の中で思索を重ねていくような、腰の据わった作品が好きなのだ。
アジテーターとして佐藤優さんを求める向きが世間的もあるのは確かなのだろうし、本書の元となった連載が『アサヒ芸能』であったというのも大きな要因なのだろうけれど、僕としてはやや物足りなさを禁じえない。


先にも述べたが、同時期に発売となった『新・帝国主義の時代』のほうが、きっと深い考察が披瀝されているに違いなく、まだ読み始めたばかりだけれど、期待している。
が、実際に書店で前面に押し出されているのは、『新・帝国主義の時代』ではなく、『国境のインテリジェンス』であることが多いように感じる。
それもまた、残念な気がする。

『新・帝国主義の時代』を読み終えた時点で、改めて本書との比較を考えたい。