2013年5月6日月曜日

高野秀行 『未来国家ブータン』

みなさんは、「未来○○」というと、何を思い出すだろう?

グーグル先生の候補は「未来工業」「未来日記」が上位に来るようだが、僕は「未来警察ウラシマン」を思い出す。
「未来警察ウラシマン」は、僕が子供の頃に放映されていた、タツノコプロの王道をいくアニメ作品だ。最近、TOKYOMXテレビで再放送されている。

で、今回の話は、「未来警察」には全く関係なく、「未来国家」の話だ。

未来国家といっても、テクノロジーの進化が変な方向に向かってしまって、諸外国のオタク達から「あいつら、未来に生きている」と言われている日本のことではない。
世界一幸せな国として昨今有名なブータンのことである。

以前紹介した高野秀行さんという作家が、ブータンを「未来国家」だとした、『未来国家ブータン』という作品を、今回はご紹介したい。

本書でも、ちょっと変わった紀行という形式は踏襲されている。
今回のミッションは、ブータンにおけるバイオビジネスに関する下見と、雪男の調査だ。
これだけ言うとあまりに支離滅裂な感じだが、ビジネスに関する下見は他者からの依頼であり、このお話の発端である。その依頼に乗っかって、雪男の調査をおこなったというわけである。
著者自身は雪男が存在するなどということには懐疑的なスタンスをとっているのだが、それでも雪男ネタに釣られて辺境に旅立ってしまうあたり、早稲田大学探検部の血なのだろうか。
(著者の早稲田大学探検部の後輩である角幡唯介さんも、自身はその存在に懐疑的であるにもかかわらず雪男ネタに釣られてヒマラヤに行き、『雪男は向こうからやってきた』を著した。)

さて、著者である高野秀行さんといえば、辺境に行ってはアヘンを吸ったり大麻を吸ったり大酒を飲んだりするイメージが強い。
が、実は、年を追うごとに、そういった面が作品に占める割合が少しずつ小さくなってきている。本書でも、そこに割いた字数はかなり僅かだ。
それでいて、辺境に強いその観察眼と洞察力は磨きがかかっている。
いや、観察眼と洞察力に磨きがかかっているからこそ、酒やドラッグの話よりも、もっと書くべきことが多くなってきているのかもしれない。

今回、その観察眼と洞察力で描き出したのは、発展が周回遅れになった結果、エコのトップランナーになったブータンの姿だ。
ブータンといえば「国民総幸福量(GNH)」で有名だが、本書で特に詳しく描かれているのはそちらではなく、この国の環境保全の在り方のほうだ。その環境保全の在り方が、先進諸国が目指しても達成できない姿を体現しているため、著者はブータンを「未来国家」だとしているのだ。

もちろん、幸福に関する観察と洞察も忘れていない。
この国では、幸せになることは権利ではなく義務なのだと喝破する。
もちろん、それを語る文章はどこまでも自嘲的な高野節だ。


本書のあとに著した『移民の宴』で、著者は「初めて親戚に言える作品を書けた」と言っていたようだが(そういうことが渋谷のジュンク堂のポップに書いてあった)、本書も十分親戚に出せる内容なのではないだろうか。少なくとも、大麻もアヘンもやってないし。
それとも、そのポップの文言も単なる高野節ということだろうか。


2013年5月4日土曜日

国分拓 『ヤノマミ』

僕はあまり、アマゾンの先住民の話にはそんなに惹かれない。どう考えれば良いのか分からず、混乱してしまうのだ。

が、NHKスペシャルで採り上げられた「ヤノマミ」という先住民の話がとにかくスゴイ、という話を聞いて、ちょっと読んでおこうかと、軽い気持ちで手に取った。それが、そのNHKスペシャルの書籍化である『ヤノマミ』である。

軽い気持ちで手に取ったのだが、読み始めてみたら、なんと重いことか。

そもそも、NHKスペシャル取材班は150日間もこのヤノマミの集落に住み込み、先住民の生活に密着取材を行っている。
NHKスペシャルのプロデューサに以前聞いたことがあるのだが、NHKスペシャルのスタッフは、その都度都度、NHKの各所からスタッフをピックアップして、タスクフォースのようにチームを組むのだそうだ。
本書の著者であり、当該番組のディレクターは、どういう経緯でこの番組に携わることになったのだろうか。プロデューサ命令であったのだろうか、それとも志願であったのだろうか。ものすごく気になる。僕だったら、とてもじゃないが、150日間もヤノマミの集落に起居するなど、無理だ。

本書はまず、ヤノマミの日常を紹介するところから始まる。
日々のルーチン、ライフスタイル、ヤノマミ以外の人々に接する態度などなど。
完全に異文化である。

そこから次第に、ヤノマミのイベントごとなどの非日常の風景や、ヤノマミの人間関係など深い部分に話が進む。

後半に入ると、出産について描かれている。
そこには、我々が考えるような出産の話とは、全く異なる世界が繰り広げられる。
言ってしまえば子供の間引きなのだが、その在り方の前には、我々の倫理観などとは全く異なる世界観に支えられた、ヤノマミのエコシステム(という表現が正しいのか分からないが、他の言葉が思いつかない)の存在を突きつけられる。
古い日本社会でも、「7歳までは神のうち」という言葉に表されているように子供の間引きは存在していたわけだが、ヤノマミのそれは、日本とは大きく異なる。

さらに話は、先住民と文明社会の接触について展開する。
文明化される若い世代、それに伴って失われる固有の習俗。先住民の話を取り上げるドキュメンタリーでは定番のテーマだが、ヤノマミと150日間起居を共にした著者の筆を通してそれが語られるとき、「先住民固有の文化を守れ!」というような、単純なイデオロギーでは語ることができない葛藤を、読者である我々も共有することになる。

あとがきでは、映画監督の吉田喜重氏の言葉として
「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」
という解釈を間接的に表現している。
また、同じく、舞踏家の田中泯氏の言葉として
「分からないということは素晴らしいことなのだ」
ともしている。
そう、ヤノマミに象徴されるような、文明と先住民の問題に対して「良いこと」「悪いこと」と断じてしまうのは、単なるプロパガンダであり、ドキュメンタリーではないのだろう。
そして、読者としての僕の中にも、重たい何かがズシリと残り、持って行き場が無い。


余談だが、村上春樹さんの『1Q84』の中に、文明側が道路を作ったにもかかわらず、その道路を避けるように歩く先住民の話が登場するが、あれはどこの先住民だったか。
ヤノマミもまさに、道路を避けて歩く。
『1Q84』では、道路を避けて歩く理由が述べられていなかったが、本書では単純に、道路は直射日光がキツくて熱いからだと述べられていた。
意外と、物事の答えなんて単純なものなのかもしれない。


追記:
NHKオンデマンドで、テレビ版を視聴した。
映像が伴うと、書籍とはまた異なったインパクトを受けた。
が、70分ちょっとという短い時間の中で伝えられることは、そう多くない。
やはり書籍を読むべきだと強く思う。
書籍を読んで初めて、取材者の見たこと、感じたことをよりダイレクトに理解することができると思う。

松谷健二 『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』

先日『ローマ人の物語』を読み終え、古代ローマの次の時代に取り掛かろうとしている。
が、その前に、西ローマ帝国を滅ぼして、一瞬のうちに歴史の表舞台から消えてしまった東ゴートを理解しておこうと思い、『東ゴート興亡 東西ローマのはざまにて』を読んだ。

僕は歴史学者になりたいわけではないので、大まかな流れが分かれば良い。このぐらい柔らかくて、この程度のボリューム感で十分だろうと。

本書は『ローマ人の物語』の43巻とほぼ同じ時代を描いている。
ただ、東ゴートに焦点を当てているので、ローマ史に登場する前のゴート人の話や、『ローマ人の物語』以降の東ゴートの行方についても描かれているが、ページ数でいえば非常に僅かだ。

『ローマ人の物語』では、あくまで「ローマ」に主眼があっての東ゴートであったのだが、本書は当然ながらあくまで東ゴートの動静をなぞっている。そういう意味では、違う視点から同じ時代、同じ地域の歴史をなぞることができる。

が、正直なところ、直前まで読んでいた『ローマ人の物語』の出来と、ついつい比較してしまう。
やっぱり塩野七生さんの腕前はスゴイ。。。

本書は、誰のために書かれているのか、その文章運びからは伺うことができないのだ。
というのも、説明も無しにいきなり登場する人物とか、さも周知のことであるかのように描かれる挿話とか、その都度「あれ、この前に何か書いてあったっけ・・・?」と、その度に前を探さなければならないようなことが多かったのだ。
一定の知識を持っている人間が読むにしてはライトすぎるし、かといって、知識の無い人間が読むには説明の段取りが悪すぎる。『ローマ人の物語』を読んだ後でなかったら、なにがなんだかサッパリ分からなかったと思う。
が、そもそも「東ゴート」などというマイナーな存在に焦点を当てた本をわざわざ読もうという人間が、まるっきり知識を持っていないということは無い、というスタンスで書かれたのかもしれない。それにしては、通り一遍な描き方だが。

とはいえ、そのマイナーな「東ゴート」に焦点を当てた作品が文庫本で提供されているというのは、非常にありがたい話だ。
なお、同じ著者で、このあたりの時代の民族に焦点を当てたものとして『ヴァンダル興亡史』という作品があるのだが、残念ながら絶版だった。。。読みたいと思ったのに。。。



ダン・アリエリー 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』

以前勤めていた会社で、僕は、社長命令と職業的良心との板挟みに苦しむことが多々あった。
おそらく、株主からの圧力もあって利益を重視しなければならなかったのだろうが、かなり黒に近いグレーな行為を、経営判断という一言で片付けて強引に推進しようとする姿に、当時の僕は強い違和感を覚えていた。

最も不思議だったのは、なぜ社長は、そんなに物事を自分に都合よく解釈できるのだろうか、ということだった。しかも、それを詭弁とも思わず、正論であると思っているようだった。
もちろん、なにかの強いプレッシャーに晒された場合、判断にバイアスがかかるということは理解していたが、そのバイアスに自分自身が侵されていることに全く気付いていない様子なのが、不思議で仕方なかったのだ。
黒に近いグレーであることをしっかり理解した上での「経営判断」なのであれば、少なくとも僕は社長の判断力を疑ったりしなかったし、社長を信頼して命令を遂行していたかもしれない・・・。


この疑問に対する答えは、すべて 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』に説明されていた。

社長は、その会社の創業者で、創業してまだ10年も経っていなかった。
いろいろな事業を興すのが好きで、そのほとんどは採算ベースに乗っていなかったが、それでも仕組みとしてはなかなかに画期的なものが多かった。
本書によれば、そういった、創造性の豊かな人は自身の不正について正当化するのも上手いのだという。

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創造性と不正の間の関連性は、自分が正しいことをしていなくても、「正しいことをしている」という物語を自分に言い聞かせる能力と関係があるように思われてくる。創造的な人ほど、自分の利己的な利益を正当化する、もっともらしい物語を考え出せるのだ。(194ページ)
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僕は、社会に適応するために創造性を封印し、実務を如何に効率的・効果的に回すかに特化してキャリアを作ってきたので、イノベーティブな人間ではないと自覚している。だからこそ、自己正当化の上手な人に対して、吐き気がするほど拒否感を覚えるし、僕自身が自己正当化の徒に堕していないかを常に恐れている。
もちろん、如何に内省したとしても、堕している可能性は常にあると思っている。僕の弱い心はすぐに折れるし、そんな時に全く自己正当化せずにいられるほど心が強ければ、そもそもそんなに簡単に折れないのだ。
だが、正当化したストーリーとパラレルで、常に、正当化を批判する別の自分を持っておくことを心がけている、(それ自体が正当化だという見方も可能だが・・・。)

そんなわけで、本書は僕の内省をより深める示唆に富んでいた。
もちろん、ただただ内省するばかりでは気持ちが暗くなるのだが、「ずる」という悲しい現実を、シニカルな笑いに変えて表現している。
ユーモアはペーソスに裏付けられているものだということの傍証のような作品だと思う。


2013年4月29日月曜日

京極夏彦×柳田國男 『遠野物語 remix』

僕は大学時代、国文学を専攻していた。
民俗学も国分学科の中の専攻課題のバリエーションに含まれていたので、僕の友人にも何人か民俗学にハマったヤツがいた。夏休みを利用して、『遠野物語』の舞台である岩手県遠野に1ヶ月間「留学」に行ってしまったヤツもいたぐらいだ。

そんな國分学科の教授陣には、柳田國男の直弟子というのがいて、外見はスターウォーズに出てくるヨーダに似ているおじいちゃんだった。
その教授は、学生が研究上の相談を持ちかけると、パンパンに資料の詰まった分厚いカバンから資料を瞬時に抜き出し、学生に提示するのである。
学生側は、よくすぐに見つけられるものだと唖然とするのが毎度のことだった。

当然、紙がそんなにパンパンに入っているカバンだから、ものすごく重い。
学生がたまにカバン持ちをするのだが、ひ弱なよく文学科の学生では、両手で持ってもシンドイぐらいだった。
そんなものすごく重いカバンを小さなおじいちゃんであるその教授は、片手で持ってさっそうと歩くのだ。なんとも不思議でならなかった。

その教授は、そのカバンを持って全国にフィールドワークに飛び回っていて、目的物を見つけると、途中に田圃があろうが用水路があろうが一直線に向かっていくという伝説を持っていた。
当然、ズボンも靴も泥だらけになる。でも、そんなことは気にも留めない。

学生たちは皆、その教授に対しては、「民俗学で妖怪の研究をしていたら、自分も妖怪になっちゃったんだね、きっと」と、変に納得していた。(もちろん愛情を込めて。)

そんな環境にいながら、僕は民俗学まで手が回らず、柳田國男の著作はほとんど読まなかった。
だから、「柳田國男」と聞くと、本人ではなく、上記の教授を思い出すのである。

そんな不肖の学生であった当時から約20年経った今でも、僕は柳田國男の著作を読まないことに関しては何も変わらない。
民俗学に興味が無いわけではないし、実際、民俗学関連の書籍を読むこともあるのだが、なんとなく柳田國男には食指が動かなかった。


そんな僕にとって、もしかしたら柳田國男への第一歩となるかもしれない書籍が出版された。
それが『遠野物語 remix』である。

その出版を知ったのは、よりによってテレビ番組『王様のブランチ』である。(恥)
本書の出版にあたって、著者の京極夏彦さんがインタビューに答えていたのだ。
インタビューによると、当初の出版社からの依頼は、『遠野物語』の現代語訳を書いて欲しいということだったそうだ。京極さんは、そんなのはツマラナイから受けない、と断ったそうだ。現代語訳なんて、自分じゃなくてもできるだろう、と。
そこで、この『遠野物語 rimix』は、柳田國男が話題の関連性も何も関係なくバラバラに書いているものを、関連する項目ごとに並べ直して、また、大胆な意訳までして、まさに「rimix」したものだそうな。

インタビューを見て、まず、『遠野物語』に現代語訳が必要だということに驚いた。たしか、『遠野物語』の成立は大正時代じゃなかったか? もはや大正時代の文章も「古典」なのだろうか。。。
明治時代あたりはまだ日本語が定まっていなくて、いわゆる「明治文語文」と言われるような文体で、日本人が日本語を探っていた時代なので、読解にはある程度の習熟を必要とすると思うが、大正ともなれば、今の日本語とそう変わらないような気がするのだが。。。


さて、肝心の『遠野物語 rimix』だが、さすが小説家の文体である。学者の文章と違って、やはり読ませる。
とはいえ、小説のような起承転結を期待して読めば、それは肩すかしを喰らうだろう。なにせこれは、そもそもが遠野に伝わる伝承や怪異譚をメモしたものなのだから。オチも無ければヤマも無い、という類の話も多い。『今昔物語』や『日本霊異記』のような伝承文学の類と同じで、何にでもオチや因果関係を求める現代人にはモヤモヤすることこの上ない。が、伝承とはそういうものなのである。
話は逸れるが、その手のオチも因果関係も何も無い伝承文学に、近代啓蒙思想を吹き込んでオチを作ってしまったのが、芥川龍之介の功罪である。

京極さんは、芥川のようなへんな尻尾を付けることなく、『遠野物語』の意訳に留めている。それは、偉大な先人に対する敬意によるのか、それとも・・・。

これをきっかけに柳田國男をほじくり返してみるのも悪くないかもしれない。
その際には、対立関係にあった折口信夫も読んでおかないとバランスが悪くなるかもしれない。
うーん、、、世の中には読むべき本が多すぎて、とても1回の人生では読みきれないことだなぁ。。。


ちなみに、実は僕は、京極夏彦さんの作品は一切読んだことが無い。というか、読まないようにしている。
30歳以降、極力小説を読まないようにするという枷を己に課しているためだ。たぶん、読んだら帰って来れなくなる自信があるので、社会生活を営むためのやむを得ない処置である。
だから、本書と京極さんの小説でどのような類似点(または相違点)があるのかについては、皆目分からないので、悪しからず。



2013年4月28日日曜日

塩野七生 『ローマ人の物語43 ローマ世界の終焉(下)』

『ローマ人の物語』文庫版43冊目。
ローマ人の物語は、これで完結である。

かねてから著者は、オリエントな東ローマ帝国は非ローマだというスタンスを取っていた。
それがここに来て、「東ローマ帝国」という言葉を使わず、「ビザンツ」「ビザンチン」という言葉を使うようになったところにも現れているように感じた。

42巻ですでに西ローマ帝国は滅んだ。
43巻に描かれているのは、西ローマ帝国が滅んだあとの跡地での出来事である。
なぜ、著者はそこまで書き進めたのか。
思うに、それは本書が「ローマ帝国の物語」ではなく、「ローマ人の物語」だからなのだろう。

195ページに、プロコピウスの「ゴート戦記」を引用して、以下のように記述している。
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これが、かつては世界中の人々から憧憬の念で見られていた、輝けるローマ市民の現在の姿であった。
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つまり、ここまで描ききることによって、本当の「ローマ人」の終わりまでを描こうとしたのだろうと。


この43巻は、次に訪れる中世暗黒時代の到来を示すような記述にも溢れている。
その一例が、155ページ。
ローマ防衛のためにベリサリウスが城壁の補強工事を急いでいる際の様子について。
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カトリックの聖職者たちは、その部分の城壁は完璧だから補強の必要はない、と言う。なぜかと問うたベリサリウスに、聖職者たちは答えた。聖ペテロが守護しているという伝承があるからだ、と。
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この論理破綻の在り方は、アメリカの保守派による進化論否定にも引き継がれているのではなかろうか。


2013年4月25日木曜日

塩野七生 『ローマ人の物語42 ローマ世界の終焉(中)』

『ローマ人の物語』文庫版42冊目。

ついに西ローマ帝国が滅んだ。

本巻では、話のほとんどが西ローマ帝国で占められている。
それは、東ローマ帝国については語るべきほどのことが無いからなのか、それとも、ローマのある西ローマ帝国こそがローマであるということなのか、真意は分からない。

いよいよ西ローマ帝国が滅びるにあたって、まさに国家としての末期症状を見る思いだ。
もはやこれは、国家の体を成していないのではないかとさえ思える。
まるで昨年までの日本の民主党政権のようだ。

そして、あんなに勢いのあったフン族も霧散してしまった。
なんだか、いろんなことが呆気無い。

そんななかでも、東ローマ帝国は難事を無難に切り抜けているようで。
また、ヴァンダル族は勢いを増して勢力を拡大していく。

やはり、指導者がちゃんと機能すると、機能したなりの結果が得られるのだなぁと。
そして、指導者が機能することを私心のために妨げる人々は、どこにでもいるのだなぁと。
そのような私心を優先するクソ野郎の罠をいかにかいくぐるかも、指導者には必要な資質なのだなぁと。

勢いがあったころのローマよりも、滅び行くローマの方が、僕にとっては学びが多い。
読んでてツマランけど。



2013年4月24日水曜日

塩野七生 『ローマ人の物語41 ローマ世界の終焉(上)』

『ローマ人の物語』文庫版41冊目。
単行本では、ここからが最終巻であるが、文庫版はこのあと2冊残っている。


41巻冒頭の「カバーの金貨について」は、いきなり以下の文章から始まる。
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人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起きる悲劇、ということである。
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実際、41巻では、人材という意味では充分な人物が、縦横無尽の活躍の末、報われない死に方をしていく様が描かれている。
その「人物」とは、「最後のローマ人」と呼ばれる将軍スティリコである。

時は、テオドシウス帝が亡くなるタイミングから始まる。
テオドシウス帝は自身が死ぬに先立ち、2人の息子に分担して国を治めるように計らい、その後見役を有能で忠実な右腕であった将軍スティリコに託した。

が、結果として、2人の息子は「分担」ではなく、東と西に国を分かち、別々に治めるようになった。
これに伴い、東側の宮廷の差金で、スティリコは全ローマ帝国の軍総司令官の立場から、西側、すなわち西ローマ帝国だけの軍司令官にされてしまう。

その後、本書はスティリコを追い続ける。
東ローマ帝国に書くべきほどのことが無かったから、ということもあろうが、同時にそれは、著者が冒頭の「カバーの金貨について」で述べた、人材が活用されないことの悲劇を描きたかったからではないかと感じた。
いや、「活用されない」などという生易しいものではない。
人材であるがゆえに、使い潰され、つまらぬ最後を迎え、それを引き金に西ローマ帝国は下り坂を転がるスピードが加速度的に増していくのだ。

読んでいて、イライラする。
多くのサラリーマンは、どうしても感情移入せずにはいられないだろう。



余談だが、本書に掲載されているスティリコの肖像を見るにつけ、面長で長身であることが見て取れるのだが、そのようなビジュアルに加えさらに、使い物にならないような素人兵士を上手く使って戦績を上げるところなどから、あるコミックの登場人物を連想した。
それは『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』に登場する常木楷という登場人物だ。
常木は通称「羊飼い」と呼ばれており、凡才ぞろいの兵士(=羊)を上手く操って戦績を挙げていくという現場指揮官として描かれている。
スティリコを見ていると、どうしてもこの常木のイメージとダブってしまって、余計に感情移入をしてしまうことだ。


2013年4月18日木曜日

塩野七生 『ローマ人の物語40 キリストの勝利 (下)』

『ローマ人の物語』文庫版40冊目。

皇帝テオドシウスの治世が主たる範囲だが、テオドシウスそのものよりもむしろ、キリスト教の動向がメインで描かれている。

なにしろ、テオドシウスの治世には、ローマ帝国においてキリスト教の国教化が著しく進んだ時期である。というよりも、テオドシウスがミラノの司教アンブロシウスにコントロールされた結果、古来からのローマの神々に対する信仰を「邪教」認定したのだ。

テオドシウスの前の皇帝は皆、死の直前になって初めてキリスト教の洗礼を受けていたのだが、テオドシウスだけは、48歳で亡くなる直前ではなく、30代のうちに洗礼を受けていたのだ。
このため、神の教えを説く司教であるアンブロシウスに逆らうことのできない信徒の立場となったテオドシウスは、中世の「カノッサの屈辱」のような公式悔悛を強いられている。

そのような経緯の末、テオドシウスの治世には、ローマ帝国の都市の至るところに飾られていた彫像が、偶像崇拝の対象であるとして破壊された。
つくづく惜しいことである。


次巻以降は、単行本ではついに最終巻となる部分に差し掛かる。


2013年4月16日火曜日

塩野七生 『ローマ人の物語39 キリストの勝利 (中)』

『ローマ人の物語』文庫版39冊目。

この巻では、コンスタンティウスに反旗を翻し、結果、皇帝の座についたユリアヌスと、その死後皇帝の座を襲ったヨヴィアヌスの治世を描いている。

ユリアヌスは、コンスタンティヌスとコンスタンティウスによって推進されたローマ帝国のキリスト教化にストップをかけた皇帝であり、すでに38巻において副皇帝としての目覚しい活躍が描かれている。
が、23歳で世に出るまで幽閉状態で過ごしたユリアヌスは、やはり世事に長けていたわけではなかったかのように、39巻では描かれている。
若いうちから多くの人の中で揉まれて成長した人ではないユリアヌスが、人の心を見透かして上手く操るなどということは望むべくもないことなのであろう。

ユリアヌスによるたった19ヶ月の治世では、ローマ帝国のキリスト教化も蛮族化も、時計の針を戻すには至らなかった。
ユリアヌスの死後に帝位を襲ったヨヴィアヌスにより、ユリアヌスが発布した反キリスト教政策はすべて破棄されたからだ。
そのヨヴィアヌスも、たった7ヶ月で死亡する。

ここで、ユリアヌスとヨヴィアヌスのそれぞれの治世に対して割かれたページ数が大幅に差があることに注目したい。

19ヶ月の在位のユリアヌスに対して約120ページ。
7ヶ月の在位のヨヴィアヌスに対して約6ページ。

この差はなんであろうか。
著者の贔屓であろうか。
トピックスの量の差であろうか。

1つ言えることは、著者は、後世から「背教者」と不名誉な二つ名をつけられてしまったユリアヌスに対して、一定以上の同情と思い入れを持っていることは間違いないと思う。
それは、ページ数という定量的な尺度だけでなく、彼の失敗や死に対する、行間ににじみ出る無念の思いからも推し知れるところである。


2013年4月14日日曜日

塩野七生 『ローマ人の物語38 キリストの勝利 (上)』

『ローマ人の物語』文庫版38冊目。

内容は、大帝コンスタンティヌスが没した後の皇帝コンスタンティウスの治世について語られている。

ローマでは完全に時代が停滞して、終焉への序章がすっかり根付いた感じの時代である。
この「キリストの勝利」の冒頭では、そんな世相を反映しての市民の暮らしについて、以下のとおり描かれている。

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独身で、子もない。とはいえ、彼だけが特別ではなかった。
帝国の将来に希望がもてなくなった時代、一生を独身で通すものが珍しくなくなっていたのである。
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単行本が出版されたのは2005年なので、今ほど独身男性の増加が騒がれていない頃である。
(ちなみに、「草食男子」という言葉の産みの親である『平成男子図鑑』が単行本化されたのが2007年のことだ。)
これを現代日本を言外に想定しながら描いたのだとすれば、塩野七生恐るべしである。

なお、著者はコンスタンティウスのことをこのように評している。

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この三十代に入ったばかりのローマ帝国最高の権力者は、心配事が一つでも残っていると動きが鈍ってしまう性質だった。本質的に小心者だったのだろう。
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なんだか、自分のことを言われているようで心が痛むところである。
だからといってコンスタンティウスに感情移入するようなことはないのだが。



2013年4月7日日曜日

エリック・ワイナー 『世界しあわせ紀行』

僕は、あまり海外旅行には興味が無い。

登山が趣味なので、海外の山に行きたいとは思うが、街には興味が無い。
なので、山以外だと、せいぜい極端な場所(密林とか砂漠とか氷原とか)の紀行しか、普段は読まない。

が、『世界しあわせ紀行』は、うっかり買ってしまったので読んだ。
それは、帯に高野秀行さんが
「こんな素っ頓狂な本、私が書きたかった」
という惹句を寄せていたからだ。

高野秀行さんが「書きたかった」というぐらいだから、僕の好きなジャンルではなさそうだけれども、もしかしたら面白いのかもしれない。
やたら分厚いので、趣味が合わなかったら悲劇でしかないのだが、それでもエイヤッ!で買ってしまった。

結論から言うと、あまり趣味には合わなかった。

本書では、ジャーナリストである著者が「幸せってなんだろう?」という疑問に答えを見つけるべく、世界各国で「あなたは幸せですか?」と聞いてまわるという内容だ。
これだけ書くと身も蓋も無いが、実際これだけである。

調査対象として、本書で著者が訪れた国は、幸せの対極に位置しそうだという理由で選んだ1ヵ国(モルドバ)と、著者の母国であるアメリカを含めて10ヵ国。
著者は、どの国についても皮肉った表現で描き出している。少なくとも、幸福な人はこういう物言いをしないだろうというところに、著者の表現方法の特徴があるように感じた。
中でも、モルドバについての章は、筆が踊っているかのような、イキイキとした筆致で、幸福よりも不幸が好きなんじゃないかと思わせるに十分な佇まいだった。

内容は、正直なところ各国事情の紹介に過ぎないような気もする。「幸福」ということをキーにしているが、結局はお国事情の表面をサラッとなぞっただけのように感じた。
文章については非常に軽妙でテンポもよく、ユーモアが散りばめられている。が、これが著者のものなのか、翻訳者のお手柄なのかは、僕には分からない。

ペシミスティックな笑いを求めるならば、本書は期待に沿うこと間違い無しだが、僕が読書に求めることとは少々異なるベクトルの作品のようだ。


2013年4月2日火曜日

佐藤優 『国境のインテリジェンス』

佐藤優さんは、僕が著者名だけで著作の購入を検討する作家の一人だ。
でも、全部を購入するわけではない。テーマによってはあまり興味の無いものもあるので、ある程度は目次を見たり、パラパラとページをめくったりして考える。

正直なところ、『国境のインテリジェンス』についてはあまり購入するつもりはなかった。
同時期に観光された『新・帝国主義の時代』だけ買っておけばいいかなと思っていた。
その思いは、『国境のインテリジェンス』を買って読み終わった今も変わっていない。

佐藤優さんの著述業としての引き出しは、僕の知る限り
  • 日露外交
  • 外務省批判
  • インテリジェンス=情報収集、情報整理、人脈構築、交渉
  • マルクス経済学
  • 神学
  • 沖縄問題
  • 拘置所暮らし
というあたりが主なところではないかと思うが、本書『国境のインテリジェンス』は、この中で特に、外務省批判の部分が強く出ている著作ではないかと思う。
佐藤優さんが政治・外交について、連載形式で広いオーディエンスを想定して短めの文章を連載する場合、思いが凝縮されるのか、語気が強くなる傾向があり、かつ、その語気の強さに反比例するように論理の積み重ねが薄くなる。論理展開として性急の感を否めない。

僕は佐藤優さんの、緻密なロジックの積み重ねが好きなのだ。
『同志社大学神学部』や『紳士協定 私のイギリス物語』などのような、ゆっくりとした展開の中で思索を重ねていくような、腰の据わった作品が好きなのだ。
アジテーターとして佐藤優さんを求める向きが世間的もあるのは確かなのだろうし、本書の元となった連載が『アサヒ芸能』であったというのも大きな要因なのだろうけれど、僕としてはやや物足りなさを禁じえない。


先にも述べたが、同時期に発売となった『新・帝国主義の時代』のほうが、きっと深い考察が披瀝されているに違いなく、まだ読み始めたばかりだけれど、期待している。
が、実際に書店で前面に押し出されているのは、『新・帝国主義の時代』ではなく、『国境のインテリジェンス』であることが多いように感じる。
それもまた、残念な気がする。

『新・帝国主義の時代』を読み終えた時点で、改めて本書との比較を考えたい。


2013年3月29日金曜日

塩野七生 『ローマ人の物語 37 最後の努力(下)』


塩野七生さんの大作『ローマ人の物語』を文庫版で読み始めて、ようやく37冊目。
すでにローマ帝国は「古代」ではなく「中世」の草創期の様相を呈してくる。

「最後の努力」と題された36冊目、37冊目は、コンスタンティヌス帝の治世について語られている。
このうち、37冊目(文庫版の「(下)」)は、コンスタンティヌスの権力奪取の経過の振り返りと、コンスタンティヌスによる対キリスト教政策について解説されている。

僕自身は、一神教という名の部分最適に対する違和感がどうしても拭えないでおり、なぜ世界の多くの地域で一神教が崇められているのか理解に苦しんでいたのだが、本書を読んで、その答えに対するヒントを得たような気がする。

例えば、93ページに以下のようなことが書かれている。
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一神教による弊害はこの一千年後になってはじめて明らかになることであって、多神教が支配的であった古代の人々の考えの及ぶところではなかったのである。
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一千年後というと、十字軍のことを指しているのだろうか。

また、107ページには、キリスト教の教義の解釈でアリウス派とアタナシウス派が対立していたことについて述べる中で、以下のようなことが書かれている。
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人間は、真実への道を説かれただけでは心底から満足せず、それによる救済まで求める生き物だからである。
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やはり、考えることよりも信じることのほうが楽なんだろうな、と思う。
僕には無理だけど。


なお、本書は、あくまで作家である塩野七生さんの史観に基づく著作なので、これを鵜呑みにすることは司馬遼太郎の『坂の上の雲』で日本史を学ぶのと同じぐらい危ういことだと思って警戒しつつ読み続けているのだが、やはりどうしてもこの史観に引き寄せられる。

足腰のしっかりした文体、ストーリーテラーとしてのテンポの良さ、そして、主旨の明快な語り口。
どれをとっても引き込まれずにはいられない。

2013年3月21日木曜日

長沼毅 『形態の生命誌』

長沼毅という生物学者について、誰かが「生物学界のインディージョーンズ」と呼んでいた。
それで興味を持ち、とりあえず取っ付きやすそうな著作を1冊選んで読んでみたのが、本書『形態の生命誌』である。

生物学の一ジャンルとして形態学というのがあるそうで、生物の構造と形態についての研究を行う学問だそうな。

で、読んでみたら、形態学は著者の専門外だそうで。



ギャフン。



でもまあ、せっかく買ったので、勉強し直しのつもりで読んでみよう。話題はそれなりに多岐に渡っているようだし。

ちなみに僕は、大学入試の時(もうウン十年前の話だ)、センター試験では生物を選択した。
生物は他の理科の科目と違い、読解力だけで6割は正解できる不思議な科目だったからだ。
そんなわけで、高校の時には生物の勉強を基本的にサボっていたし、それ以降もちゃんと勉強したことは無い。
だから、本書に書かれているような知識も、「どっかで聞いたような・・・」というレベルから、そもそも全く初見のものまで色々だ。
ただ、著者の語り口が軽妙で、私立文系出身の僕でも飽きることなく読み通せた。


最も衝撃を受けたのは、オウム貝の巻き方の法則が黄金比率によるものではないということ。
なんだよ、耳学問で聞きかじった話はウソだったのか!
やっぱり、受け売りの知識では大やけどをするということだ。

また、簡単なルールで複雑な形を生成するLシステムと、それを数列化したフィボナッチ数列については、ネット業界に長く勤める者としてはgoogleの検索アルゴリズムのことに思いを馳せずにはいられなかった。


なお、本書においては「インディージョーンズ」としての側面はほとんど垣間見ることができなかった。
最後の方にちょこっとだけ「南極に行った」と書いてあっただけ。
また改めて別な著作を探ってみたい。




橘玲 『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』

最近評判のアベノミクス。
経済学者はその効果(もしくはリスク)について、明けても暮れても百家争鳴。
僕はお金の話が苦手なので、果たして誰が言っているのが本当のことなのか、さっぱり分からない。
そんなとき、橘玲さんが新刊を出した。
それが本書『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』だ。

橘玲さんは、最近でこそ行動経済学や社会学全般に手を広げた著作が多いのだが、もともとは外貨や証券による海外資産でのリスクヘッジを提唱する著作が多かった。
そういう意味では、久しぶりの資産運用に関する著作だ。
だが、本書は単なる資産運用のハウトゥ本ではない。
アベノミクスの目指すところと、それが失敗に終わった時のシナリオを提示し、それに合わせた段階的資産運用方法が解説されている。
つまり、アベノミクスの平易な解説書でもあるのだ。

正直なところ、僕は資産運用に興味があまり無いので、橘玲さんの資産運用関連の著作は読んだことが無いのだが、行動経済学関連や社会学関連の著作はひととおり読んでいるし、ブログも読んでいる。なので、著者がどのようなスタンスの人なのかを一定程度理解しているから、本書に書かれた内容もどう理解すれば良いかが分かるので、安心して読める。
これが、よく知らない証券会社上がりの経済評論家の書いたものなんて、どういうスタンスなのかを知らずに読んだら、こっちが痛い目に遭ってしまう。

もちろん本書は、リスクに対する対策を解説した本であるので、国家財政が破綻するシナリオも提示されているのだが、その危機感をいたずらに煽るのではなく、あくまで可能性の一つとして提示するに留められている。実用書として非常に良心的な作りになっていると感じられた。

橘玲さんの著書は、本書も含め、非常に細かくロジックを積み重ねていくので、文章に派手さは無い。その分、初学者にも分かりやすい。
本来、学問はこういう言葉で語られるべきなのだと、つくづく思う。



2013年3月16日土曜日

ショーン・エリス、ペニー・ジューノ 『狼の群れと暮らした男』

前回のエントリーでは、頂点捕食者が生態系の要であること、そして、そういった頂点捕食者の一種としてのオオカミがイエローストーン公園に再導入されたことによる生態系への好影響について触れた。

実際、狼を日本に再導入しようとしている人達は、このイエローストーン公園の事例を非常にありがたがり、成功事例として喧伝している。
ただ、どうも僕には、イエローストーンの事例をそのまま日本に当てはめられるのか、釈然としない。

そんなわけで、オオカミ関連の文献をコツコツと読み漁っているのだが、その一環として今回は『狼の群れと暮らした男』を読んでみた。

著者はショーン・エリスとペニー・ジューノの2人ということになっているが、著者紹介にはショーン・エリスしか載っていないし、本書はショーンの一人称スタイルで語られていて、ペニーの気配はどこにもない。本文中にも登場しない。
もしかしたら文章を担当したのがペニーなのか。よくわからない。

本書は、オオカミと共に生きるショーン・エリスの半生を一人称形式で語った作品だ。
このショーン・エリスは、イギリスやアメリカのテレビ番組などにたびたび出演しているようだが、実は2010年に日本のテレビにも出演している。
それは、2010年2月28日放送の『世界の果てまでイッテQ』の珍獣ハンター・イモトのコーナーだ。イモトがオオカミの群れに混ざるという企画で、ショーンの運営するクームマーティン・パークを訪れたのだ。
残念ながら、本書にはそのことは全く触れられていないが、興味のある方はネットで探すと動画が見つかるかもしれない。

さて、肝心の本書であるが、オオカミの生態ではなく、オオカミと暮らした男の生態が描かれているといったほうが、より適切な印象を抱いた。
が、そこは流石「オオカミと暮らした男」、オオカミの生態についてもかなりのボリュームを割いて解説している。とはいえ、そのアプローチは「暮らした」という観点からであり、大部分を経験論で占められている。
ショーンの展開するロジックが、あくまで経験に基づいた論であるところが、生物学者のカンに障るのだろう。本文中でも度々、生物学者たちから受け入れられない状況に言及されている。

しかしながら、ショーンの経験は、動物園の飼育員程度の経験とはモノが違う。
飼育下に無い野生のオオカミの群れに交じって、しかもその群れの中で最下位のポジションとして2年間もの間、オオカミと同様の生活(そう、風呂にも入らず寝具も用いず、食料もオオカミと同じものを食べて)を送った。
外から観察しなければ客観性を担保出来ないという考え方もあるかもしれないが、内在理論は中に入ってみなければ見えてこない。それは、人間でも動物でも同じではないだろうか。

そんなわけで、これまでいろいろな本を読んでモヤモヤしていたオオカミ問題について、本書を読んで非常にクリアになった部分がたくさんあった。

まず、日本オオカミ協会がいうような、日本の山にオオカミを再導入するのは、麓に住む人間にとって危険ではないという主張は、大きく前提条件を欠くものではないか、ということである。
ちゃんと管理をしなければ、酪農や人間に対する被害だって普通に発生するのだ。
その管理というのも、オオカミを管理するというよりも、環境自態を管理する必要がありそうだ。

実際、本書には、ポーランドでの家畜や犬に対する被害、カナダで単独行のハイカーに対する被害が紹介されていた。

著者であるショーンは、オオカミと人間の垣根を取り払うべく尽力しているわけだが、その彼においてすら、現状においてオオカミ再導入に諸手を挙げて賛成しているわけではないことが、本書の強いメッセージとして読み取れる。オオカミを再導入するということは、オオカミを放てば良いということではないのだ。
つまり、オオカミと人間が棲み分けできる環境を整えなければいけないのだ。その点が、日本オオカミ協会の主張では非常に脆弱な印象を受けるのである。
当然、生態系の破壊をこれ以上進めてはならないという思いは、僕とて同じではあるのだが。



2013年3月12日火曜日

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 『捕食者なき世界』

近所に、手頃な書店が2軒ある。
その書店のいずれかには、東京を離れている時でなければほぼ毎日のように立ち寄るのだが、それぞれの書店で書棚の作り方に特徴があって、目立つように平置きされている本が大きく異なっている。それが、それぞれの書店の生き残り戦略なのだろう。

そのような書店の片方で、長きに渡って生物学関連のコーナーに置かれていたのが『捕食者なき世界』だ。
この本は、なぜかAmazonの「おすすめの本」でもしつこく僕向けにレコメンドされていた本なので、気にはなっていた。
そして、ついに根負けして購入するに至ったのだ。

読み始めると、覚醒効果のある葉っぱでも噛んだかのように、脳にダイレクトに刺激が伝わるような内容だった。
あっというまに読書メモに文字をびっしり書き込むことになった。


本書の全体を通してのテーマは、食物連鎖の頂点に君臨する捕食者こそが生態系の番人であり、頂点捕食者(トッププレデター)がいなくなると食物連鎖の下位の生物が増殖して生態系が大幅に崩れ、最終的には見るも無残なほどに自然が破壊される、ということだ。
本書では、それを補強するような研究事例や、それらの研究の歴史などを紐解き、帰納法的にテーマを掘り下げていく。

その1つの例として取り上げられているのが、アメリカのイエローストーン国立公園にオオカミが再導入されたことによる生態系へのプラスの効果についてだ。
かつて西洋において憎まれ役でしかなかったオオカミは、白人のアメリカ入植以降、ひどい迫害を受け続け、ついには絶滅しかける状態にまで至った。なかでも、国立公園として海外にまでその名が知られるイエローストーン国立公園では、園内に限って言えばオオカミは絶滅した。
オオカミが絶滅して以降、公園にはシカが大繁殖し、若木を食い荒らし、公園の緑は荒れてしまった。
そこに、再びオオカミを他所から連れてきて放ったところ、生態系のバランスに回復の兆しが見えてきたということだ。

実はこの話は、僕もよく知っている。
これに類似した話は、アメリカだけでなく、ドイツにもポーランドにもある。
なぜそんなことを知っているのかというと、日本にもオオカミ再導入を唱える人たち(日本オオカミ協会という団体がある)がいて、その人たちによる著作を読んだからだ。
(興味がある方は、こちらの記事をご覧ください。)

僕は奥多摩や丹沢、奥秩父の山々を歩きながら、シカの害を肌身に感じることが非常に多い。
このため、狩猟免許を取得してシカ猟することで、少しでもシカの害を食い止めることに役立てないだろうかという思いを強く持っている。
日本オオカミ協会の人たちは、「狩猟で解決するには、日本のハンター達は高齢になりすぎた」というロジックでオオカミの再導入を推進するのだが、そこに僕は常に論理の飛躍を感じていた。
オオカミ再導入にあたってのリスクと、日本のハンターの若返り施策の実現性を天秤にかければ、若手のハンターを育成する方が現実的なんじゃないかと思うからだ。

でも、本書『捕食者なき世界』によれば、僕のその考えは間違いだということになる。
被食者(捕食者の餌となる生物。オオカミに対するシカなど)は、捕食者が常に周辺をウロウロしているという危機感を感じることにより、その行動が抑制され、その抑制された分だけ植生に対する食害が抑えられるというのだ。
つまり、シカの頭数の問題だけでなく、シカの行動そのものをどれだけ抑えられるのか、ということなのだ。
たしかに、丹沢あたりの鹿は、まるで禁猟区を知っているかのように、猟が解禁されると禁猟区に逃げていき、そこで木々が枯れるまで芽でも葉でも食い荒らすのだ。

本書は、日本オオカミ協会の人たちよりも、オオカミ再導入についての説得力があった。
唸るしかない。

ううむ。。。


2013年3月9日土曜日

佐藤優 『佐藤優のウチナー評論』

鈴木宗男氏に連座して外務省を追われた佐藤優氏は、現在はさまざまなメディアで精力的に情報発信をする作家に転身した。
その情報発信スタンスは、氏が外務省官僚であったころに学んだインテリジェンス(情報収集・分析)と、官僚になる前から取り組んでいる神学やマルクス経済学をベースにしている。
論考は常に鋭く、緻密だ。

そんな佐藤氏の著作は硬軟織り交ぜて多数世に出ているが、僕はそのうちの10作品程度をすでに読んでいる。
他の作品は今のところ、まあ、読まなくてもいいだろうと判断して手をつけるつもりはないものだ。

Amazonで出版情報を見ていたらもうすぐ新作が出るようなので、それを心待ちにしていたのだが、先日沖縄に所要で出かけた際に空港の書店で、これまで見たことのない佐藤氏の著作を見つけた。
表紙に佐藤氏の顔写真がデカデカを使われているのだが、それ自体は氏の著書では珍しいことではない。問題は、その表紙の写真が、やや粗いのだ。
この粗さはもしかして、ローカルな出版社が講演集でも編んで出しているのか?と思って手にとってみると、出版元は琉球新報社。沖縄のローカル新聞社だ。
内容は、その琉球新報社が発行している琉球新報に連載された、佐藤氏の評論をまとめたものだった。丁寧に、著者本人によるまえがきとあとがきも添えられている。

その本のタイトルは『佐藤優のウチナー評論』。

Amazonを見たら、データはあるものの取り扱いは無かった。

内容は、母親が沖縄の出身である著者が、自身の中の沖縄の血を沸き立たせながら、沖縄が現在(連載当時)立たされていたさまざまな問題に対しての処方箋を熱く書き綴っている、という感じである。
マニアックな知識を前提として書き進めるスタイルは著者の他の著書と変わらないが、沖縄ローカルの新聞での週一連載であることを意識してか、多少は解説的な言い回しも多いような気がする。
その代わり、沖縄に関するような話は、ヤマトンチュにはピンと来ないような話も無解説だ。
たとえば、「おもろそうし」とか「八八八六」とか。
きっと沖縄の人ならば解説無しでピンとくるカルチャーなのだろう。

主なテーマの1つとして、沖縄が政治的に割を食っている現状を改善するための提言、特に中央官僚と戦うための処方箋にかなりの項を費やしている。
連載当時、まだ籍は外務省に残っていた著者だからこそ、独自の視点として語るべきことを語ったのだろう。

本書を読んで、東京在住の中年サラリーマンである僕には、具体的な行動に落とし込めるような示唆は現時点では何も無いのだが、沖縄の置かれた状況・立場を理解するという意味では大いに役立ったと思っている。
少なくとも在京大手の新聞社が報じる沖縄の姿よりも、より体系だった理解が促される内容であった。



2013年3月2日土曜日

ローリー・スチュワート 『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』

一般の旅行者が近寄れないような危険地帯についての情報は、非常に限られた経路でしか入手できない。それでは、仮に偏向した情報であったとしても、それが正当かどうかの判断を下すことができない。
そういった状態に僕は、非常に非常に非常に不快感を感じるのだ。
かといって、命懸けで一次情報を取りに行くほどのリスクテイカーでもない。

そんなハンパ者の自分には、自らリスクを引き受けて治安の悪い地域をリポートしてくれる本はこの上なくありがたい。
今回取り上げる 『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』は、まさにそういった作品だ。

イギリス人である著者は、なぜか自らの意思で、2000年~2002年にかけての19ヶ月間でアフガニスタンを歩いて横断した。その際の模様を記したのが本書である。
なぜ著者はアフガニスタンを歩いて横断したのか、本書を読んでもよく分からない。が、歩いて旅をすることにより、その土地の人や風土を肌感で理解することを目的としたのかもしれない。

文章は、残り1割になるまで、淡々とした記述が続く。
解説や背景の説明は非常に少ないので、なんだかよく分からないままに旅が進んでいく。
ページだけが進んでいき、アフガニスタンに関する知見が深まるわけでもない。
苦労して旅をしているのは伝わってくるし、危険な目に遭っているのも分かるのだが、それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、残り1割ぐらいになって、急に筆致が変わる。
やっと著者の思いの片鱗が、具体的な言葉として現れてくるのだ。
だが、その時点ではもう旅の終わりが間近だ。
そして、決してハッピーエンドとは言えない結末。すごくモヤモヤする。


なお、先日取り上げた 『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』でも記載があったのだが、本書でもイスラム教徒の犬嫌いが色濃く描かれている。
なんというか、特定の生き物を「不浄」とするのって、なぜなのだろうか。




2013年2月25日月曜日

高野秀行著 『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』

アフリカ事情に疎い日本人が多い中でも、さすがにアデン湾への自衛隊派遣については聞いたことがあるのではないだろうか。
要は、ソマリアという崩壊国家に巣食う海賊が諸外国の貿易船舶を襲撃するため、護衛のためにソマリア沖を自衛艦が航行しているのだ。
このような経緯から、ソマリアについて、日本では「海賊国家」というような認識をしている人が多いのではないだろうか。

僕がソマリアという国を初めて認識したのは、映画『ブラックホークダウン』であった。
ソマリアにおいて国家が完全に崩壊し、乱立する武装勢力による群雄割拠の内乱状態にあるところへ、国連軍(という名のアメリカ軍)が軍事介入をしたところ、武装勢力によって返り討ちにあってしまった、という内容の映画だ。
(こういう書き方をすると身も蓋も無いが。)

僕にとってのソマリアは、その映画を観て以来、情け容赦の無い凶暴な人々の国、というイメージが強くなってしまった。

が、その後、現代アフリカについて書かれた書籍を10冊、20冊と読み進めるうちに、アフリカの国家はソマリアに限らずどこも、いったんバランスを崩すと同じような無法地帯になるのだなー、という印象を持つに至った。

ただ、日本で特にアフリカと直接関係の無い生活を送っていると、アフリカに関する情報というのは非常に少ない。大型書店のアフリカ関連コーナーの貧弱さを見るにつけ、日本語で入手できる情報の少なさに残念な思いを抱かずにはいられない。

そんななか、著者自身がソマリアに入国して、実際に目で見て耳で聞いたことを綿々と書き綴った作品が出版された。
それが『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』である。

著者は高野秀行。
早稲田大学探検部の出身で、アフリカ、中東、アジアの、主に治安の悪そうなところを中心に出歩いて取材し、ノンフィクションにしたためている作家だ。
著者の初期の作品は、早稲田大学探検部らしく気を衒った、良くも悪くもうわついたトーンの作品が多いが、『謎の独立国家ソマリランド』は非常に腰の据わった印象を受けた。

タイトルにある「ソマリランド」は、ソマリアの北部が独立宣言をして独立国家を名乗っている、その国の名前だ。が、ソマリランドを独立国として認めている国は無い。
正直なところ、本書を読むまで僕は、ソマリランドは内戦が行われているような地域にありがちな、武装勢力が勝手に名乗っているだけの実態の無い存在だと思っていた。
が、本書によれば、その認識は大きな間違いであるようだ。

ソマリランドでは、自国通貨であるソマリランド・シリングが主に使用されており、きちんと機能しているという。
しかも、治安も極めて良好であるという。

治安が極めて良好だ、という情報は、実は本書に先行する日本語での書籍にも記述があるという。
1つが『アフリカ21世紀』。もう1つが『カラシニコフ』。本書で、その2作品が紹介されていた。
前者については読んだことは無いが、後者は、出版されてすぐに読んだ。いろいろと印象に残っている作品だったのだが、ソマリランドの治安が良好であるということに言及していたという記憶が全く残っていなかった。きっと単純に、印象に残らなかったのだろう。


さて、肝心の本書の話だが、先に述べたように、著者の作品にありがちな浮ついた感じが良い意味で薄らいでいながらも、軽妙なテンポの語り口は健在で、非常に読みやすく、しかも頭に残りやすい。非常に好感を持った。
特に、ソマリ人の社会における非常に重要なファクターである「氏族」の概念を、日本の鎌倉~戦国の武将に例えるなど、便宜的な手法であるにせよ、著者の作家としての腕の成せるワザであると感じた。

内容についても、相変わらず並のジャーナリストでは成し得ないようなアプローチから、草の根レベルの取材で以て謎を1つ1つ解き明かしている。
その甲斐あって、この手のアフリカものにありがちな「で、結局なんでそうなんだ??」というモヤモヤが生じず、納得感の強い作品に仕上がっていると思う。というか、僕がここ5年ぐらい持ち続けてきたソマリアについてのモヤモヤが大幅に解消された。
また、それ以上に、なんといっても、ソマリ人ひとりひとりの息遣いを感じられる筆致は、高野節の面目躍如といったところではないだろうか。

これまで現代アフリカ関連の書籍は多数読んできたが、本書はその中でも群を抜く作品だと言って過言は無い。


2013年2月24日日曜日

はじめに

僕は、無軌道に本を読む。

仕事の役に立てようとか、なにかの試験に合格しようとか、そんな気持ちはもうとっくの昔に無くなった。
知らなかったことを知ることにより、頭の中でパズルのピースがカチっとはまったような感覚があり、ただただその快感だけを求めて本を読むのである。
ある種の淫欲であると言っても、それほど間違いでないだろうと思う。

このブログは、そうやって読んだ内容を自分の頭に定着させるための、単なる個人的な読書メモだ。
誰かの役に立つとも思えない個人的なメモを公の場で発表することは、まさしくトラフィックの無駄に他ならないが、どうかご容赦いただきたい。

まさかこんなブログから何らかの示唆を受けようとする人もいないとは思うが、ここに書く事は完全に個人の印象ベースの話であり、正しい情報であることを保証するものではないので、あしからず。